千の夜 一の夢
6.海を越えて
アデルはノエルが待つシンシアの木の下へと向かっていた。アデルが少し早く来すぎたのだろうか。まだノエルはやってきていない。アデルは木の下で彼がやってくるのを待っていると、ガサッと木の上から何かが落ちてきた音が聞こえた。音がした方を見ると、男の二本の足が宙に浮いていた。
アデルはゆっくりと見上げる。その足の主は誰なのか……。
アデルは飛び起きた。
呼吸が浅く、嫌な汗が噴出している。指先が氷のように冷たい。
ここ数日、こんな夢ばかり見ている。
シンシアの木の下でノエルが語ったイニスの王族や旧勢力派の最期が頭から離れない。
絞首刑になり、遺体はそのまま放置され、死肉を野生の動物が食い漁ったという。
人はどこまで残酷になれるのか。
十年前処刑されたノエルは生きていた。
約束の日に、会いたかった人に会えたというのに、ノエル――チャーリーは、夢をあきらめ切れないアデルの息を止めにきた。
本当に、美しい死神だったのね。
涙が頬を伝い流れては落ちた。
心を打ち砕くくらい酷いことを告げ、恋をしてはいけない人だったと悔やむように仕向けてくれたらよかったのに。
あんな男を思い続けていた自分をあざ笑い、奮い立たせて、夢中になれるものを探せたかもしれない。
ベッドの側にはよく眠れるようにとマーニャが摘んできてくれたラベンダーが花瓶に飾られているが、効果はないようだ。
憔悴したアデルの顔を見て、マーニャは心を痛めるだろう。
ノエルと再会した夜、満開だったシンシアの花は散った。大地がシンシアの花びらで埋め尽くされると、本格的な夏がやってくる。
早く、いつものように振舞いたいが、失恋の痛みはそう簡単には忘れられないようだ。
ドアを叩く音が聞こえた。誰と告げると、おずおずと弟のアベルが顔を出した。
久しぶりに見た弟は、へんてこなキノコのような髪型になっていた。もしかすると、姉を元気付けようと体を張ったのかもしれないが、アデルは笑い飛ばす気力はなかった。
レースを引いた天蓋ベッドの上から、部屋に入ってきたアベルをぼんやりと眺めていた。
「姉上、ようやくカトリーナに乗れるようになったんですよ」
にこにこと嬉しそうに笑った。
「あらそう。よかったわね」
気の抜けた返事にアベルは不満げな表情を浮かべる。
「……カトリーナにようやく乗れたのですよ」
「よかったわね」
誰もが容易く乗れる大人しい雌馬カトリーナにようやく乗れたというのに、罵ることなく、ぼんやりとこたえる姉にアベルはブチ切れた。
「姉上! なぜ、厳しく仰ってくれないのですか! カトリーナなら誰でも乗れるわよ! ドンくさいわね! バカじゃないのと罵ってくださらないのですか! 気の抜けた姉上は、姉上らしくないです!」
「そうね」
アベルが怒鳴っても、アデルは乗ってこなかった。
いつか、姉をぎゃふんといわせたいと思っているが、こんなかたちで勝利しても意味がない。
こうなれば、最後の手段だ。アベルはニマニマ笑いながら話しかけた。
「知っていますか。母上のお気に入りのチャーリーを父上が連れて、スベニア国へ行くのですよ」
グフフと、十二歳の子どもにしては下品で嫌らしい笑い方をした。
「……何ですって?」
アデルの瞳に強い光が灯る。
スベニア国はノエルの兄であるカノンが亡命した国だ。大陸の海側にあり、国土は広くはないが交易の要所であり、昔から栄えてきた。
ウィンランド王国とはさほど盛んに交流はしていない。今後を考えて、親しくしておくのか。
そうではないとアデルは思った。
チャーリーとカノンの背には古代の秘法がある。
両国はそれぞれ片方ずつ手に入れている。
二つとも手に入れ、古の巨人を復活させるため、父王はスベニア国と取引に行くのだろう。
こうしてはいられない。
炎の巨人の復活なんてさせないんだから!
亡きイニス国が守ろうとしたものを守ってみせる!
「アベル!」
久しぶりに聞く怒声にアベルはしびれた。
「レディが着替えるのだから、早く出て行きなさい!」
元に戻った姉を見て、アベルは嬉しくなって小躍りしそうになった。
「はいぃぃぃ! 姉上!」
アベルは踵を返し、超スピードで部屋を出て行った。
「早く扉を開けなさい」
アデルは会議中の部屋の前で仁王立ちし、警備中の兵士をにらみつけた。兵士はヘビににらまれたカエルのように動けなくなっていた。
こたえなければ失礼であるが、何をいっても口が達者なアデルにいい負かされそうだ。困り果てた兵士の額からはダラダラと冷や汗が流れていた。
「会議中ですので、いくら姫様であろうとも開けるわけにはいきません」
「あらあら。娘が父親に会いに来たのよ? 親子の対面を邪魔する気?」
数年振りの再会なら、すぐさま王に報告するだろうが、毎日顔を合わせている親子に大事な会議を中断させてまで会わせる方がおかしい。もし、要求通り会わせたら、無能だとすぐさま解雇される。やっとの思いで、試験に合格し、ようやく掴んだ職をそうそう手放すわけにはいかない。
「無茶をいわないで下さい」
「開けなさい!」
兵士の当然の言い分をアデルは無視し、大声を出した。アデルの声の大きさは半端ではない。ビリビリと窓ガラスが響いた。もう少し大きな声を出すと、きっと窓ガラスは割れるだろう。
アデルはつかつかと兵士の側まで歩み寄り、耳元で大声出しそうとした時、固く閉ざされていた扉が開いた。
「騒々しいぞ。アデル」
眉間に深いしわを作った父王はアデルを見詰める。氷のような冷たい目に思わずひるみそうになった。
「お父様、お話があるのです」
父王は何もいわず、マントを翻し、去っていく。アデルは急いで父王の後を追った。
休憩に使う父王専用の部屋は、落ち着いた色合いで統一され、ほっと息をつくのには快適な場所だ。父王はゆったりと椅子に腰掛けると、アデルを見た。
きっと父王はアデルが無茶をした理由を知っている。だからこそ、何もいわずにここへ連れてきたのだ。
アデルは息を大きく吸ってから告げた。
「お父様、わたくしをスベニア国に連れて行ってください」
父王は少しも動じることはなかった。およそ予期していたのだろう。
「物見遊山に行くのではない」
「わかっております。お父様はスベニア国に亡命したカノン皇太子と会われるのでしょう? 会って、何をする気ですか? カノン皇太子とノエル王子の背には古の巨人の秘法が隠されています。それを合わせて、巨人を復活させようと考えていらっしゃるのではないですか」
父王は何もこたえようとはしなかった。それが何よりもこたえだとアデルは思い、深く頭を下げた。
「お父様、最後のわがままです。わたくしをスベニア国へ連れて行ってください」
アデルがいう最後のわがままの意味を悟ったのだろう。しばらくじっと娘を見詰めていた父王はこたえた。
「そんなにノエルが好きか?」
「そうよ。いけない?」
アデルは不敵な笑みを浮かべて、父王に挑む。