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タジオ幻想

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 『充足』はどこから来ていたのか。誰かと一緒にいたいと垣内が思う前に傍らにいたのは誰か。ちっとも優しくないし、辛らつな物言いが癇に障る。会話のどことにも粋を感じず、腹が立つことも少なくない。なのに――なのにそれを嫌だと、垣内は感じたことがなかった。
 昼間、喫茶室で頭の中から追いやった織部の仏頂面を引き戻す。垣内が思い浮かべる織部は、いつもそれだ。その彼は今、どんな顔をして、自分に口づけているのだろうか。
 垣内は唇を離して、織部を見つめた。目を凝らして彼の表情を見るが、よくわからない。ただ彼の吐息は熱く、垣内と同じに感じていることはわかった。感じていて欲しいと思った。
「ああ、そうか、俺はおまえのこと、好きなんだな?」
 織部に回した腕に更に力を入れると、抱き返された。
 そうして唇は、三度(みたび)、重なったのだった。




 目が覚めると垣内は一人で、昨日の服のまま布団の中にいた。夜のことは夢だったのだろうかとも疑ったが、上掛け布団をはぐって起き上がると自分のものではない、しかし聞き知った残り香がして、さっきまで織部がいたことがわかった。
――今度こそ帰ったのか?
 かも知れない。日曜日なのに打ち合わせがあると言っていたことであるし。
 垣内は、そろりと唇を指でなぞった。気のせいか少しはれぼったい。唇がふやけるほどに長く、何度もキスをしたことはなかった。キスだけで満たされた気持ちになったのも初めてだった。
――う、巧すぎる。何なんだ、あいつ。
 身体中が熱くなる。織部が帰ってくれていて良かったと垣内は思った。どんな顔をして会えばいいかわからなかった。
 言わなくて良いことも言った気がするが、したたかに飲んだアルコールと巧すぎるキスのせいで、ところどころ記憶が飛んで覚えていない。重ねた唇の感触ばかりが蘇って思考の邪魔をするので、垣内は思い出すことを諦めた。
 時計を見るとまだ九時にもならない。もう一眠りして、いつも通り風呂に浸かろうと、再び、横になり目を閉じた。


『書けないで、おまえに見放されるのが怖いんだ』


 垣内は飛び起きる。欠けた記憶が断片的に戻ってきた。それも最も思い出したくなかったセリフ順に、次から次へと。幸せなキスの余韻で火照った身体は、血の気が引いて一挙に冷える。いくら酔っていたからと言って、何を口走ったのか――もしや、「好き」とも言ったのではなかったか?
「わぁ、わぁ、わぁ」
 耳の奥で蘇る声に、垣内は現実の声を重ねて掻き消した。
 二間を仕切る襖が開いて、身支度を整えた織部が顔を覘かせる。垣内は目を見開き、同時に赤面した。
「もう帰ったと思った」
 それでもとりあえず平静を装おう。
「今から出ます。約束は三時なので」
 織部はいつもと変わらない。昨日も彼は飲まなかった。一晩中、交わした言葉もキスも、きっと垣内以上に覚えているはずだ。目の前には茹でだこのようであろう垣内がいると言うのに、腹が立つほど平静だった。本当は何もかもが夢だったのではないかと思えるくらいに。しかし上掛け布団の残り香と、垣内の唇が鮮明に記憶する感触が、夢ではなかったと訴えている。
――ああ、そうか、きっと織部には覚えていたくないことなんだ。酔っ払いのたわ言につきあったに過ぎないんだろう。織部は…一言も好きだと言わなかったし、俺の言ったことにも応えなかった。
 織部から始まったキスは、記憶が曖昧なだけで自分からねだったのかも知れない。そう言うことなのだ、なかったことにしたいのだと、織部が変わらない理由付けをして、垣内は納得した。織部がそのつもりなら、自分もそうすればいい。旅の恥はここにかき捨てて、日常に戻ればいいのだと。
「明日、帰ることにするよ。どうせ書けないから」
 垣内は布団から出て立ち上がり、ぼさぼさの髪を手櫛で撫でつけると、大きく伸びをした。
「悪いけど、ここの払いはとりあえず立て替えといてくれるかな? 必ず返すから、請求書を回してくれ」
 伸ばした手でそのまま、織部の肩を叩く。二週間も逗留してしまった。どれだけの支払いになるのか、定期預金を解約するしかないか…などと考えると、垣内は眩暈を覚えた。一行も書けなかったばかりか、プロットすら立たなかったのだから、織部に全額支払わせるわけにいかない。それに、借りは作りたくなかった。
――そう言えば、告って振られたの、久しぶりだなぁ。
 好きな気持ちを自覚して、すぐさま告白したのは初めてだった。垣内は笑いを禁じえなかった。
「出来れば、分割で頼むな」
 朝の光を伝える張り出し窓の障子戸を開けた。結露で濡れたガラスをセーターの袖で拭って外に目をやる。よく晴れていた。窓を開けると澄んだ山の空気が垣内の髪を揺らした。この前髪を、織部が梳き上げたのが昨夜の『夢』の始まりだったが、あの辺りの垣内の記憶は更に曖昧だ。実際に織部がそうしたのかどうなのかは不明で、これもまた垣内の希望によって作られた記憶なのではと自信が持てない。
「今晩、ここに戻ってきます。明日の朝、出ましょう」
 背後で織部が言った。
「明日は仕事だろ? 一人で帰れるさ。駅まで送迎バスが出ているんだし」
「有給を取ります」
「そこまでする必要はない。そんなにしてもらっても、俺は返せないよ。今まで期待させて悪かったな。もう俺に気を遣わなくてもいいから」
 相変わらず読めない表情で織部は垣内を見ていた。垣内は笑って見せたが、跳ね返されているように感じる。何を考えているのやら、自分はこの男のどこに惹かれたのだろうと、垣内は自問した。
「返してもらわなくても結構です。書けなくても俺はあなたを見捨てないし、離しませんよ」
「織部?」
「やっと両想いになれた相手を、離す馬鹿がどこにいるかってことです」
 張り出し窓に腰をおろしかけた垣内は、織部の言葉に思わず立ち上がる。
「『好きだ』って言ってくれたでしょう?」
 一気に顔に血が集まった。よりにもよってそれを言った本人に向って確認するのかと、垣内は織部のデリカシーの欠如を改めて知った。しかしここは狼狽している無様を見せたくない。それでなくてもさんざん醜態を晒してしまった。主導権を常にとられっぱなしだった上に、キスだけで陶酔しきった顔を見られているのだ。いつも通り開き直りで答えるしかないと思ったところで、その前に言った彼の言葉をリピートする。織部は大事なことをさらりと言わなかったか?
「両想い? 何だよ、それ?」
「俺はあなたに惚れてるんです」
「はあ?!」
「初めて会った時からずっと」
「ゆうべは言わなかったじゃねぇか?!」
「今、言いました」
 織部はそう言うと腕時計を見た。それから部屋の入り口へと、何事もなかったかのように歩き出す。
 襖に手をかけると突っ立ったままの垣内を振り返った。
「不足なら、今夜、じっくりお聞かせします。やっとあなたと飲んで理性の箍を外しても、後悔しないで済むとわかったことだし」
 そして笑って、今度こそ部屋を出て行った。
作品名:タジオ幻想 作家名:紙森けい