タジオ幻想
垣内は張り出し窓に座り込む。今起こった一連のことは、まるで現実味がない。織部がずっと自分を想ってくれていたなど、日頃の彼を見る限り、気づけと言う方が無理である。ゲイだったことだけでも驚きなのに、出会った時から好きだったと言われても、俄かには信じがたい。
「だいたい何だ、あの見たこともない笑顔は…」
ジェットコースターのような展開に、左頬をつねってみると痛かった。頬をさする手の小指が唇に触れた。
言葉だけでは信じられないことを、あのキスが証明する。
「お寒くないんですか?」
市川が部屋に入ってきていた。垣内に確認してから、手際よく布団を片し始める。織部とのことを彼に悟られるはずはないが、垣内は表情を引き締めた。
「ちょっと外の空気が吸いたかったんだよ。確かに冷えるな」
窓を閉めようとして、中庭に桜王と瑞姫の姿を見とめた。
その美貌は変わらないのに、桜王に対する垣内の印象はすっかり変わってしまった。神秘的で鮮やかだった桜王は、今は色あせて年相応の普通の少年にしか見えない。美少年と文明の利器は、相容れないものなのだと垣内は結論づけたが、それはあくまでもレトロ好きで機械音痴の個人的見地によるもので、ここに織部がいたなら、あきれた視線を寄越すことだろう。
そう言えば、昨日、織部の機嫌がよく見えたのは、垣内が桜王に幻滅したあたりからではなかったか?
――もしかしてあいつ、桜王に妬いていたのかな?
あの織部が、自分の年の半分以下の子供に嫉妬していたのかと思うとおかしかった。
「明日、お発ちになられるんですよね? 藤堂様方も今日お発ちになるので、寂しくなります」
「あの子達も帰っちゃうのか」
瑞姫にまとわりつかれながら歩く桜王。初めて彼らを見た時と同じ構図だ。
藤堂桜王は、自分の中で育てていた恋を知るために用意された狂言回しだったのではないかと垣内は思う。あれほど理想的な美少年であるのに、垣内はついに一言も彼に話しかけなかった。無意識とは言え、その美しさを酒の肴にして織部の反応を見、結果的にその嫉妬心を煽った。そして普通の少年と変わらないことに幻滅して――あの日、突然、視界に現れた桜王は、垣内の恋の自覚と共に消え去ろうとしている。
垣内は桜王の後姿に軽く手を振った。すると初めて彼を見た時同様、垣内の方を振り仰ぐ。桜王からは垣内が見えるはずはなく、垣内からもまた桜王の表情がはっきりわかるはずはない。
しかし彼は――
しかし彼は確かに、誰をも一目で虜にする壮絶に美しい顔(かんばせ)で、艶然と微笑んだのだった。
脚注1:『ヴェニスに死す』トーマス・マン作 実吉捷郎訳(岩波文庫版)より
脚注2:アイルランド出身の作家。十六才年下の文筆家(同性)との男色行為を咎められて収監され、地位も名声も失う。