Estate.
Date 8/31
「じゃあ、行くな」
「うん」
二ヶ月。
長いようでとても短い、このひと夏を過ごした家の前に、俺は立っていた。
今日は、この夏の終わりの日。
「ほんとに送ってかなくて平気?」
「ん、平気平気」
「バス停着く前に倒れないでよ」
「倒れるか。……あのさ、お前の中の俺の体力ってどんなもんなの」
「いや、なんか、そういうイメージが」
「どういうイメージだよ……」
ごめん、とサキは楽しそうに笑った。
今日も空は青くて、日差しが眩しくて、風は強かった。
初めてこの家に来たあの日も、こんな風にいい天気だったことを思い出す。
あの日、夏へと向かっていた季節は、今は秋へと向かっていた。
「あ、そうだ」
「ん?」
「これ、渡しておかないと」
「え?何?」
不思議そうな顔をしたサキに、俺は、鞄の中から紙の束を取り出した。
「ごめんね。手書きだから、読みにくいかもしんないけど」
「……うわ、覚えててくれたの」
「当たり前でしょーが。約束はちゃんと守りますよ、俺は」
サキの為に書く、と。
そう約束したのは、この夏の初めのことだ。
けれど、紙の束を見つめていたサキが、不意に言った。
「……ねえ、真宏。俺さ、これ、受け取るの、やめていい?」
「!やめる……って、」
「あ、違う、ごめん、読みたくないとかそういう意味じゃないからそこは絶対誤解しないで!!」
驚いた俺に、慌てたようにサキが言葉を続けた。
「真宏の本は、読みたい。俺、真宏が書いたものって何も知らないけど、多分真宏が書いたものなら俺は好きだよ。……なんとなく、どんなものを書くのかもわかるような気がする。だから、本当はすごく読みたい」
「なら、なんで」
「……真宏さ、俺が、いつか歌手になれたらいいな、って言ったの覚えてる?」
「ああ」
覚えているに決まっていた。
あの時、俺がどれほどの衝撃を受けたか、サキは多分、知らない。
「あれね。半分は本当だけど、半分は嘘」
「え?」
「嘘、っていうか、……嘘とは違うのかな、……本当はね、もう諦めてたんだ、俺」
「なっ……」
「俺には無理だ、って。そんなの叶うわけないんだ、って。色んな言い訳して、一生懸命自分に言い聞かせてさ。あれはもう、諦めたことだったんだ」
サキは、顔を伏せた。
とても納得なんかできなかった。
あれだけの声を持つ、あれだけの力をもつサキが、そんな風に思っていたことが、切なくて、悔しくてたまらなかった。
「っ、何言ってんだよ、サキ!!あの時俺がどれだけっ、」
「うん。知ってるよ。……真宏があの時、本気で言ってくれたこと、わかってる。それでもずっと蓋をしてきたくらい、……俺は、もう、諦めてた。……諦めたかったんだ」
「おい!!」
「でもね、真宏。……俺、諦めるの、やめる」
顔を上げたサキが、真っ直ぐに俺の目を見つめた。
「諦めるの、やめた。俺、本気で歌手を目指すよ。もしかしたら、今更もう遅いのかもしれない。……本当にもう、無理なのかもしれない。でも、諦めるのは、やめる」
「……サキ……」
「俺、歌うから。いつか、真宏のところまで届くように歌うから。……だから、真宏。俺のこと、見つけてよ」
「……!!」
「絶対、見つけさせてみせる。真宏が見つけられるとこまで、俺絶対行く。だから、俺のこと見つけて。……いつか、必ず、見つけて。それを貰うのは、その時にしたい。……だめ、かな?」
ふわり、サキが笑った。
「っ、真宏っ?」
俺は、サキを抱きしめていた。
そうせずには、居られなかった。
「……だめなわけ、ないだろっ」
「……うん」
「絶対に、見つけ出す。……どこに居ても、どんなに時間がかかっても、絶対に、絶対に見つけ出すよ、サキ」
「うん。約束だよ、真宏」
「……サキ、俺は、」
「真宏」
俺の言葉を、サキが遮った。
……俺が何を言おうとしたか、サキはきっとわかっていた。
俺の腕の中から脱け出したサキは、俺の唇を人差し指で塞いだ。
「……その続きも、次に会ったときに、ね」
悪戯っぽく笑う、サキ。
どこまでも、敵わない。
……サキらしかった。
「……じゃあ、約束、な」
「うん。約束」
子供みたいに、俺達は指を絡めた。
夏空のような、サキの笑顔。
絶対に忘れない。
この約束も、この、サキの笑顔も。
―――言葉にはもう、ならなかった。
熱い風が、吹きぬける。
「さよなら、……真宏」
「ああ。―――さよなら、サキ」
別れの瞬間、俺達は確かに笑っていたと思う。
光る海だけが、俺とサキの夏の終わりを見つめていた。