nameless
「うん。とっても。だから、私はアルと一緒にいられて幸せだったよ」
そう言うジルの表情は本当に優しくて、慈悲深く僕の不安を和らげてくれた。
「僕も、ジルと一緒で幸せだった」
それだけ言うと、僕はジルから手を離し立ち上がった。これ以上彼女と居ると泣いてしまいそうだったからだ。僕は彼女の前では泣きたくなかった。幸せだったのだから、出来れば笑って別れたい。
ドアの前まで歩いていって、ドアを開く前にジルの方を振り返った。
「ジル」
僕が呼びかけると「なに?」と返してきた。
「……ごめんね」
「……んん。私、本当に幸せだったんだよ。だから、ね?」
「うん……」
彼女に何て言っていいのか分からず、僕はそのままドアを開けてジルの部屋から出た。何故か彼女に会う前よりも、もやもやとした煩わしい感情が居座っていた。
部屋を出るとすぐに先ほどの使用人が僕に近寄ってきた。
「ジル様とのお別れは済みましたか?」
「ああ……」
僕が呟くようにそう言うと、使用人は「そうですか」と淡々として返した。
「それでは、失礼ですがジル様から何か受け取っていないか、確認させていただきます」
そう前置いて、使用人は僕の衣服をまさぐった。ポケットはすべて裏返し、上着どころかシャツまでも脱がされた。そうして使用人は、徹底的に僕の衣服の中を点検した。
すべて調べられると、ようやく僕は使用人から解放された。僕はぼんやりした頭を左右にふらつかせて、自室に戻った。
部屋の中は実に寂しいものであった。かつてあった様々な家具類はほとんど撤去されており、必要最低限の物しか置かれていない。まるでここが、自分の部屋ではないような錯覚を覚えた。
撤去された物はすべて、ジルと関わりのある物。これもまたしきたりに則ったもので、僕と彼女を繋ぐものはすべて失われてしまった。彼女と一緒に読んだ本も、彼女を招き二人並んで眠ったベッドも、彼女から誕生日プレゼントにもらった可愛らしいアクセサリーも、なにもかも。彼女との思い出が少しでもあるようなものは容赦なく廃棄され、僕とジルの間は徹底的に引き裂かれた。もう手元には、彼女との思い出の品など一つも無い。