人間屑シリーズ
そうして世界は染まっていく
目覚めた瞬間から寒さを感じた。隣で眠っているクロの温もりだけが生々しく感じられたが、頬に触れた空気には確かな冷たさが混じっていた。
まだ眠っているクロを起こさないようベッドから抜け出し、顔を洗い身支度をすませる。
クローゼットから取り出したあのスイッチを鞄にそっと隠すように入れて、私は白いコートと白いブーツ姿で黒い箱から外の世界へと踏み出した。
――雪が降っていた。昨日クロが言った通りに。
ちらちらと小さく、触れればすぐに溶けてしまうような儚い雪。
目の前にふわふわと舞うその雪に、そっと手を伸ばす。雪は私の肌に触れると同時に溶け消えた。はぁーっ、とため息交じりに吐いた雪が白い。
私はエレベーターに向かいながら、ミカにメールを打つ。時刻は午前八時を少しばかり回った所だ。
『今なにしてる? 私はいつでも向かえるよ』
私がそう打ち、エレベーターが五階から一階へと着く間にミカからの返信が届いた。
『駅前のマックにいる』
私は急ぎ駅前へと向かう事にする。ミカへは『すぐにそっちに行く』とだけメールしておいた。
ミカは何故駅前にいるのだろうか。スイッチの設置予定は駅のコンコースだ。そこまで近くに辿り着いているのは偶然か? それともヒントを買ったのだろうか? もしも後者だとすれば、ミカがこれまでに買ったヒントは六回。残り四回で一千万に到達する。
やはり今日の昼頃にはノルマが達成されて、契約完了になるかもしれない。そしてそれは私自身がスイッチを設置する事を示している。
『シロ、僕等は間違ってなんかない』
ふいにクロの声が脳裏を掠めた。
そうだ、何も不安になるような事じゃない。私達は間違ってなんかいない。
ミカだって……ただの友達ごっこだ。そうなんだ。
頭の中でぐるぐると答えの無い考えを巡らせていると、いつの間にか駅前に着いていた。
ミカにメールを打ち、到着した事を伝えると二分後には返信が来てマックの前で待っていると書いてあった。
マックの方へと向かうと、ミカの姿が確認できた。
「ミカーー!」
声を張って彼女の名を呼ぶと、すぐさまこちらに気が付き彼女は私の元へと走ってきた。
「ごめん! こんな朝早くから」
息を切らしながら頭を下げるミカ。彼女から吐き出される白い息すら美しい。
「ううん、全然! ところで現状はどうなってるの?」
「私、あれから二回ヒント買ったの。それでこの駅付近っていう事は分かったんだけど……」
意外だった。すでに二回も買っていただなんて。
「ミカ、じゃあもう……八百万も……」
私が小さく漏らすと、ミカは下げていた顔を上げにっこりと笑った。
「私は元々この世に未練なんて無かったんだもん。ただ“本当の友達”が出来たから、少し生き伸ばしてみたいなって思っただけ。大体一千万なんていう金額に釣られて、他人に命を受け渡す事自体が間違ってたんだよ」
だから――とミカは続ける。
「だから別に良いの。私の命の価値が一千万からゼロ円に変わったって。元々ゼロだったんだもの。そりゃあ、もし生き残れたらずっとたくさんの借金が増えてしまう可能性もあるけれど……。今はとにかく早く見つけて、それで……こんな下らない事にあなたを付き合わせる事をやめたいの」
「ミカ……」
心がグラグラと揺れているのが自分でも分かった。しかしそれは分かってはいけない事だ。見てはならない。気付いてはならない。
「雪……、すごい降ってきたね」
ミカはそう言って天を仰いだ。その姿は天空にある城に恋い焦がれる堕天使のように美しい。
私も彼女に倣って空を仰ぎ見る。さっきまでちらついていただけの粉雪が、今はもう大粒のぼたん雪に変わっていた。
「積もるかな。積もったら、あなたの事見失いそう」
ミカはそう言うと、笑いながら私の白いコートに積もった雪を払った。