人間屑シリーズ
*
グイグイと誰かが俺を引っ張っている。なんだろう? 寒い。
グイッ、グイッっとさらに体が何度か持ち上げられた。
誰だ? 俺を引っ張るのは。少しだけ目を開くと、飛び込んできた日の光に眼球の奥が痛んだ。
「う……」
小さく呻くと俺を引っ張っていた力が消えた。
「生きとったかぁ〜……」
何だ? 意識が徐々に覚醒していく。真っ先に視界に飛び込んだのは小汚いオッサンだった。
何だ? 何だこのシチュエーションは? つーか寒い。寒すぎる。ん?
「オイ! それ俺のコートじゃねぇか!」
気付けば目の前にいた小汚いオッサンが既に、俺のコートと自分のボロボロの衣服とを見事にコーディネートし終わっている所だった。
「うひゃひゃっ! ひゃっ!」
オッサンの歯の無い口から、笑い声と共に凄まじい口臭が吐きかけられる。
「うぇっ!」
クソッ! 朝っぱらからまた吐きそうになったじゃねぇか! ……ん? 朝? ……。朝だとぉぉぉぉぉおおおおおっ!? 今何時だ!?
ハッとなって時計を見やれば、時刻は午前七時一八分。おいおいおいおい! 後十時間じゃねぇか! 俺の命!
「返せ! 俺のコートだろ! それ!」
「生きとるとはなぁ〜……。損したなぁ〜……。ひゃっ!」
歯の無いオッサンはニタニタしながら、俺のコートを脱ぎ始める。
「早くしろよ!」
モタつくオッサンからコートをぶんどり、すぐさま袖を通す。
「うわっ! クッセェ!」
既に臭ぇじゃねぇか、コノヤロー!
「ひゃっ! うひゃひゃっ!」
笑ってんじゃねぇよ!
「兄ちゃんなぁ〜。何か分からんが頑張れよ〜」
「あんたの方が頑張るべきだろ! 俺はあんたと違って……」
突如投げかけられたオッサンからの言葉に反射的に返した。だがそこで言葉が詰まる。違う? 一体何が違うんだ? このオッサンと俺。違う所なんて何も無い。
「はっ」
なのに次の瞬間、俺はオッサンを鼻で笑っていた。どうしても自分と差別化したかった。俺は違う。俺は違うんだ。
「オッサンさぁ、恥ずかしくないの? そんな風に生きてて」
心では自分と変わらないと気付いているのに、頭では蔑む。そうして自分より劣っていると判断した人間に苛立ちをぶつける。……最低だな、ホント。本当に屑だ。
だがオッサンは気にも留めないといった感じで笑っている。
「兄ちゃんなぁ〜。人が生きるっていう事は他人の中に恥を塗りこめていく事だ〜。生きてりゃみんな恥ずかしいんだよ。生きるっていうのはそういうこったぁ〜。そもそも俺たちゃみーんな父ちゃん母ちゃんの恥ずかしい事した結果生まれてきてんだかんなぁ〜」
言ってオッサンは下品にうひゃひゃひゃひゃ! と笑った。
「最低だな」
と言った後、つられて俺も笑ってしまった。
生きてれば失敗もする。迷いもするし敗北だってする。プライドを大きく傷つけられる事だってあるだろう。誰かに殺意を抱くほどの嫉妬だってするだろう。そうして生まれた感情は知らず知らずの内に他人に見透かされて、その記憶に保存される。それは自分自身への恥となり、やがて他人が怖くなる。
……だけど。だけどそんな事は当たり前で、俺だけじゃなくて皆そうで……。だから、怖がる必要なんか無かった。
どこにも無かったんだ。最初から。
「オッサン、俺はもう行く」
「そうかぁ〜」
――大丈夫だ、俺はまだ走れる。
「風邪ひくなよ?」
「わがらんなぁ〜。兄ちゃんがコートでもくれればひかねぇかもなぁ〜。うひゃひゃっ!」
「やるかっ」
背を向け俺は歩き出す。一歩一歩、朝日を受けて歩みを進める。ふと振り向けばオッサンはまだこっちを見ていた。
お互い何をするわけでもない。手を振るわけでも声をかけるわけでもない。でもほんの数十歩の間、俺はそのまま後ろ向きで歩き続けた。――前を向いたら走り出そう。もう一度。残り十時間の人生になってしまうかもしれないが、それでもその間はみっともないほど抗おう。
眠りから覚めた頭は、昨晩に比べはるかにスッキリしていた。