人間屑シリーズ
カウントダウン
クリスマスが過ぎた後のこの地区には、思ったより人が少なかった。骨まで沁みるような冬の潮風を受け、俺と先輩は白い息を吐き出しながら走る。
――ホテルへ。その周辺の庭園へ。その奥のレストランへ。
日はとっくに暮れ、時計は午後十時を指している。
闇に閉ざされた世界で俺は歩みを止めた。
「?」
先輩は不思議そうに俺を見上げる。
「先輩、本当にありがとう御座いました」
そう言って俺は深々と頭を下げた。
「ん?」
戸惑った先輩の声が頭上から響く。
「もう、ここまででいいです。これ以上こんな事して先輩が風邪でもひいたら……」
頭をあげて、もう一度先輩の顔を見つめる。先輩は大きな目をより大きく見開いて俺を睨みつける。
「何言ってるの? 君は死ぬかもしれないんだよ? こんな時に風邪ひくかもって」
心なしか先輩の目が滲んでいる気がした。
「ははっ。少しマヌケな心配でしたかね。でも、本当にもういいんです」
「君はっ」
「諦めたわけじゃないです。でも……」
先輩の手に触れた。
「ここからは、俺一人で十分です」
先輩の指先が俺の手の甲をそっとなぞる。
「俺が殺されるなんて事になったら、その時に近くになんていちゃダメです」
先輩は黙ったまま俺の人差し指を握りしめる。
「あ、勿論殺されるつもりはないですよ? でも生き残れる保証もありませんし」
自分でもバカみたいに明るい声が出た。
「元々、俺の最悪な感情と最低な考えが出した結果です。こうやって今先輩と一緒に過ごして……イブまで一緒に過ごせたんですよ? もう十分すぎる位……十分です」
先輩が綺麗な形の唇を開く。
「なにそれ……。遺言?」
上目づかいに俺の顔をじっと見つめる先輩の頭を、そっと左手で撫でる。
「その思い出で、俺は強くなれるっていう……よくある話ですよ」
ふいに先輩が少し背伸びをして、その唇が俺の唇にそっと触れた。温かで柔らかい感触が唇から全身に広がる。先輩の細い体をギュッと抱きしめると、心臓の裏側がざわざわしてくる。
本当に心から誰かを愛した事なんか無くて、好きだという言葉を使って自分の性欲だけを処理したがってた俺。――だけど、もしかしたら少しだけ分かったのかもしれない。
俺は人生で初めて人を愛しているのかもしれない。憧れでも性欲でもない。ただ彼女を抱きしめると心臓の裏側のどこか分からない部分がざわついて、体全体に優しい気持ちが溢れるのは確かだ。
「……待ってて下さい」
唇を離して先輩を抱きしめたまま囁く。
「……うん。帰って来なかったら、私……。足首まで切りつけるから」
「ブラックだなぁ」
「本気よ」
そう言って微笑む先輩に、もう一度キスをして彼女を腕の中から解放する。
「じゃあ、行きます」
それだけ言うと、先輩に背を向け俺は走った。
「――――てるっ!」
背後から先輩の声がしたが、港の冷たい風の音にかき消えた。……振り向くわけにはいない。俺には時間が無いんだ。先輩から十分に離れ、携帯を開く。
買ってやる。買ってやるさ。いくらでも! 俺が生き残る為に!