人間屑シリーズ
「先……輩……っ……!」
やっとの思いで喉から声を絞り出す。目が先輩の足を捉えたまま離れてくれない。断わっておくが、俺は何も先輩の肌に欲情しているわけではない。いや、さっきまであったそういう感情が一気に吹き飛んだくらいだ。大学時代――先輩の彼氏とのセックスを見せられたあの日以来、数年ぶりに見る先輩の脚には今、無数の切り傷が描かれていた。
もう既に痕として残っているだけのものから、茶色く変色しているもの、切ってからさして時間がたっていないのか、血が滲んでいるものまで、両足とも腿から膝にかけて酷く歪なリボンでも巻かれてしまったかのように、それは彩られていた。……なんだコレは? ……なんなんだ、コレは? ……リストカットか? いや、リストじゃねぇからな、腿って英語でなんていうんだ!?
「こんなんじゃ、スカートなんか穿けないでしょ」
先輩は囁くようにそう言うと、少しだけ悲しそうに笑った。
「先輩……どうして……」
「安心するから」
間髪入れずに答えたその声が、ひどく無機質な音に聞こえる。
「いつから……ですか……」
「大学、卒業前にはもうクセになってたかな」
まるで感情など籠っていない、誰か他の人間の事でも話すかのような口調で言い放つ先輩。
そんな先輩の前に俺は黙ったまま跪いてから、そっと先輩の脚に手を伸ばした。ちらと先輩の顔を伺うと嫌がっている風でも無かったので、俺はそのまま先輩の足にそっと触れた。間近で見た赤い傷は、より一層痛々しく映る。俺は傷の一本に静かに舌を這わせた。
「何してるの?」
「これくらいの傷、ツバつけときゃ治ります。すぐに、治ります」
頭の上で先輩がプッと吹き出した。その声につられて俺も思わず笑みがこぼれた。
「バカみたい」
「バカなんです。でも、そんなもんです」
今度は先輩と俺、同時に笑った。そしてそのまま、俺と先輩は笑い続けた。二人の笑い声が高層ホテルの一室で響き渡っていた。
腹が痛くなるほどに笑っていたその時、ピンポンと言う軽快なインターフォンの後に遠慮がちなノックがした。
「あ、あの人かなー」
そう言うと先輩はスッと立ちあがり、扉の方に目をくれた。……あの人? 俺の心中を察したかのように、先輩はにこやかに口を開いた。
「二人だけじゃつまんないかなー、と思って。さっき面白そうな人見つけたから誘ってみたんだー」
「? 見つけたって?」
「ん? 出会い系だよー。危ない人だとイヤだし、君、見てきてよ」
そんな事を平然と告げて、先輩はにっこりと笑う。その笑顔に俺の中で若干の違和感が生じた。
なんだろうか? 二人きりで過ごすと思いきや、ここに来ていきなりの出会い系発言だ。……なんというか――さっきの傷もそうだが大学の頃に比べて、先輩は影をおびまくっている。学生の頃はもっと、なんていうか……。……いや、それは俺も同じか。
大人になっていくという事は、どこかで傷ついていく事なのかもしれない。そうして傷を塞ぐ術をしらないものは、やはりどこか違っていくのかもしれない。先輩も、俺も。そうして少しばかり世間からズレてしまったのだろうか。
他愛もないと一笑に伏されそうな事を考えながら、先輩に命じられたままに扉の前に立つ。
出会い系で呼んだ――って大丈夫か? 開けた瞬間にいきなりブスリとかはないだろうな? そりゃまぁ、もうすぐ死ぬ身ではあるが刺殺は本意ではないところだ。とはいえこのままこうして突っ立っていてもしようが無いので、俺は意を決して扉を開けた。
「あ、どーもー。H@RuToです」
重くて豪奢な扉を開いたその先にはオッサンが立っていた。にこにこ笑いながらこちらの様子を伺っているメタボリック全開のハゲ散らかったチビのオッサン。しかも今、自分の事をハルトって名乗らなかったか? どういうセンスしてんだ。
「いらっしゃーい」
戸惑う俺の背後で、先輩がご機嫌そうにオッサンを招いている。オッサンは俺に軽く会釈をすると、先輩の方へとトストスと歩いて行った。「いやー美しい!」とか何とか言いながら、先輩の周りをグルグル回るオッサン。おいおい、そんなに回るとバターになるぞ。
「H@RuToさんは、なんかクリスマスソングを演奏してくれるんだってー」
先輩はすこぶる上機嫌だ。けど、そうか。出会い系っていうから俺はてっきりソッチ系だと思っていたけど、なんだ音楽SNSかなんかの事だったのか。このオッサンは楽器の演奏の為に呼ばれたのか。意外と出来るオッサンなわけだな。ま、当然と言えば当然だよな。このオッサン、普通に考えたらどーしたって“ない”。