遠くへ行く歌
「なあ、最近マジで篠田見ねえよな」
学食で、隣に座った男子学生が、向かいの男子学生にそう言った。
「ああ。昨日の語学にもいなかった」
「だろ。連絡もつかなくてさ。……『行っち』まったのかな」
「かもなあ……」
定食に箸を伸ばしながら、彼らはどこか淡々とそんな話をしている。イヤホンの入った私の耳には、彼らの会話の下敷きに、『遠くへ行く歌』のコーラスが響いている。
この半年で、日本の失踪者や自殺者の数は例年平均の二倍になった。自殺に近い事故も含めればもっと増えるらしい。そして彼らの多くは、日頃から中毒のように『遠くへ行く歌』を聴いていた。聴きながら死んだケースも多かった。物理的に、他の人々の手の届かない所に『行って』しまった人だけではない。あの曲さえ聴いていれば食事もいらないという拒食者、部屋から一歩も出ずにあの曲ばかり聴く引きこもりなど、以前の自分とは別の場所に『行って』しまったような人も大勢いた。だから、社会現象なのだった。若い世代を中心として、影響は幅広い世代に及んでいた。
あの曲の、何がそんなに人を惹きつけるのか。何が人を『行く』ことへ駆り立てるのか。テレビや新聞はこぞって取り上げ、科学的に分析もしたけれど、結局『行って』しまう人の数を減らすことには役立たなかった。
『遠くへ行く歌』の曲は美しかったけれど、歌詞自体はどちらかといえば平凡だった。『遠く』、決して明示されない漠然とした『遠く』へ、行こうと思い立つまでの心情が少しばかり細やかに、けれど飾り気のない言葉で歌われているだけだ。なのにそれが、人のどこかに引っ掛かる。引っ掛かりどころは人によって違った。曲が人に特定のイメージを起こさせるのではなく、人がそれぞれの裡に眠るイメージを曲に付加させたくなる、あれは多分、そういう曲なのだ。その証拠に、日本語の歌詞が通じない海外でも、日本と同時期からあの曲の影響者が出ていた。影響の大きかった北半球の国々は次々とあの曲を禁止したけれど、一度あの曲に触れてしまったが最後、その深く、ひそやかな浸透から逃れることはできない。
「お前、心配じゃねえの?」
“篠田”の話を持ち出した学生が言った。
「え? そりゃ、心配だけど……」
わかんねえじゃん、ちょっと山奥とか海外に旅行してるだけかもしれねえし……。言われたほうは、むしろ相手の態度に戸惑ったように言葉尻をすぼめた。自分に矛先を向けられたのが、予想外であったというように。
「そうかもしれねえけどさ」
相手のほうも、責める口調ではなかった。どことなく自問自答するような雰囲気で、
「ほんとにみんな落ち着いてるなって思ってさ。他にもいなくなった奴とか『行っち』まった奴のこと、みんなもっと騒いだり引き摺ったりしてもよさそうなのに」
私は隣で話を聞きながら、少し意外だった。今になってそんなことを言える、彼に驚いていた。
『遠くへ行って』しまった人々について、残された周囲の人々はあまり感情を動かさない。もう『行って』しまったのだから仕方ない、と納得してしまうのだ。それは、周囲も同様にあの曲を聴いているからなのだろう、と言われている。
『遠くへ行く歌』は、誰もが多かれ少なかれ持っている『隙間』を満たす。それが、専門家が導き出した答えの中で、もっとも多くの人に支持された説だった。一見充実して、ごく当たり前に生きていても、人にはどこかに欠落がある。孤独や、渇望や不安、漠然とした寂しさや虚しさ。一人一人違う形の欠け方をしたいびつさが、人を個人たらしめている。同時にそれを埋める誰かや何かを求め続けて、完全には果たせないのが普通なのだけれど、あの曲はその欠けた穴の形にぴったりと嵌まって、欠落をきれいに埋めてしまうのだ。その空洞が大きければ大きいだけ、あの曲に多くを占められてしまう。他者への興味が薄くなり、自分とあの曲以外の誰も、何物も必要としなくなる。
――色んなことが平気になってきたの。
友人は亡くなる少し前、そんな風に言っていた。彼女の『遠くへ行く歌』へののめり込み方は、私よりもはるかに重く、度を越していた。大学も休みがちになり、出てくる時はいつもi-podを手放さなかった。少しずつ痩せていくのに反比例して、表情も雰囲気も以前よりずっと穏やかになっていった。
――もう、一人でいることも嫌じゃないし、みんなに遅れないように頑張ってたことも、はやく何かはっきりしたものを手に入れなくちゃって焦ってたことも、すごくちっぽけで遠いことに思える。……ねえ、晴れた日に一人で空を見上げて、なんだか切ない気持ちになったことない?
あるよ、とその時答えたのを覚えている。
――あの曲を聴いてると、それと似た気持ちになる。知らないうちに、すごく遠いところへ来てたことに気付いたみたいな。だけど寂しくないの。ただ別れてきた何もかものことが懐かしくて愛おしくて、遠くて、このままもっと先へ行ってしまえるなって思う。
そして、彼女は晴れた日にマンションの屋上の、いちばん縁のその先へ、足を踏み出して『行って』しまったのだ。ただあの曲に満たされて、これまでなら行けるはずのなかったところへ。自殺という形さえ、彼女にとっては大きな意味のあるものではなかったという気が私にはする。
私は驚いたし、悲しくも思った。だけどその報せを聞いた時にはもう、受け入れていた。だって彼女は生前からもう、私から遠くなっていたし、私も彼女から遠くなっていた。私たちは前ほど頻繁に会わなくなっていた。彼女は晴れた空の下にいて、私は雪に降り込められていた。イヤホンで自分にだけ聴こえるように聴く音楽が、自分にとっては世界全体のバックミュージックになるみたいに、それぞれがあの曲に満たされ取り籠められて、自分だけの世界で完結していた。彼女が抱えていた空洞の大きさに私は気がつかなかった。それは多分、あの曲を聴く前から存在していたのだろうけれど。