A Groundless Sense(4)
カツシと泉子は小さなホワイトボードを持って筆談した。
『51階なんて酸素がもたないよ』とカツシ。
『ゆっくり行けば?』と泉子。
『何が襲ってくるかわからない』とカツシ。
『ユーレーが怖いんでしょ?』と泉子。
『怖くて悪いか?』とカツシ。
『あたしが守ってあげる』
泉子は手作りのミニ祓串を振ってみせた。
『インチキ聖人め』
無駄な会話はそのくらいにして、二人は踊り場まで上っては少し休むことを、何度もくり返した。
五十階を五十分かけて上った。酸素の残量は時間換算であと八十分。上出来だ。
ここから二手に分かれることにした。泉子は五十一階から五十五階、カツシは五十六階より上を担当する。三十分後に五十一階の階段口に集合と約束して、二人はそれぞれの仕事にかかった。
一人で各階をまわるにはフロアは広すぎた。カツシは根拠のない直感を働かせ、もう十分かけて最上階まで上り詰めた。ここは一発勝負しかない。
オフィスのコンピューターは完全に死んでいた。机の間をぬって骨の山をかき分けつつ、奥まで行くと、ガラス張りの個室があった。
『印刷書類保管室』
ドアには鍵がかかっていた。
ガラス部分を殴った。拳を痛めるだけだった。
拳銃で一発。火花が散っただけだった。
防弾ガラス……つまり、それだけの価値があるということだ。
カツシは千江から借りてきた特製弾倉入りの拳銃を抜き、取っ手めがけて撃った。
金属製の取っ手が風穴に変わった。なんという威力。残り八発……スライドをそっと撫でてからホルダーにしまった。
ドアを開いてライトを照らすと、そこは金庫の団地だった。電子ロックの電池はとうに切れているはず。五十を有にこえる錠前の群れに、虎の子の徹甲弾を使い切るわけにもいかない。酸素の残りは六十五分。集合場所まで五十分の量は残さなければならないから、あと十五分。いやまてよ、六十階から下っていく分を引くと、残りは五分だ。
クソッ、探索はここまでか……カツシはヤケになって棚下段の金庫の扉を蹴飛ばした。
一辺五十センチほどの立方体は、滑って棚の奥の方へ少しずれた。
あれ? 意外と軽い?
カツシは金庫を棚から引っ張り出した。充分持てる重さだった。丈夫なのはともかく、部外者に持ち出されることは想定になかったのだろうか? 昔の人は大らかだったと聞いてはいるが……。
考えている暇などない。カツシは金庫を個室の外に持ち出しているうち、ひらめいた。
そのまま窓際まで行って金庫を下におくと、『普通』の拳銃で窓ガラスを撃ち抜いた。ガラスはあっさりヒビが入った。
再び金庫を持ち上げ、ガラスのヒビに投げつける。
ガラスは砕け、金庫は暗黒の下界に落ちていった。
確認する間はない。カツシは次の金庫にとりかかった。
泉子は五十一階の階段口でカツシの帰りを待っていた。あちこち欲張ったせいでめぼしい収穫はなかったが、命あっての物種と、時間は厳守した。
約束の時間はとうに過ぎている。酸素の残りは四十分。
あと十分来なかったら、探しに行こう……自殺行為だとわかっているのに、なぜそう考えてしまうのか、ぼうっとしていてわからなかった。
残り三十二分。今にも駆け出そうというとき、上から小さな足音が近づいてきた。
カツシはそれからたった二分で下りてきた。息が上がっている。酸素ゲージを見ると残り十八分だった。
上で何やってたなどと、叱っている暇はなかった。
『呼吸より速く走るしかない』
泉子はホワイトボードに書いた。めちゃくちゃな理屈。でも意図は伝わるはずだ。
『下に落とした金庫を見たい』とカツシ。
『バカ! 今度にして!』
カツシは苦笑いして親指を立てた。
二人は一段飛ばしで階段を駆け下りていった。
ビルの外に出たとき、カツシの酸素ゲージは『E』だった。
カツシは苦しさのあまり、歩道に四つん這いになった。
エレベーター塔まであと一五〇〇メートル。
泉子は肩ひもを外してカツシのボンベを捨てると、息を止めて自分のマスクをあてがった。
カツシは立ち上がれるようになると、すぐにマスクを泉子に返した。
一つ呼吸するたびに、マスクを付け合う。
ゲージの針はみるみる左へ傾いていき、残りは十分、一人あたり五分となった。
二人は三十秒ずつ息をとめて、ギリギリまで普通の速度で歩くことにした。
はじめは三十秒守った。それが進むたびに二十秒、十秒と狭まっていき、『エレベーター改札口まで300メートル』の標識を横切ったとき、泉子の酸素も底をついた。
最後に吸ったのはカツシ。泉子はボンベを捨てる。
二人はうなずき合うと、エレベーターの扉めがけて走った。
カツシは足が速いほうではなかったが、それでも泉子を引き離し、一足先に無人の改札を抜け、ドアのボタンを叩いた。
重い鉄扉が開いていく二秒間が、永遠に思えた。
空気に満ちた室内へ転がりこんで、思い切り息を吸う。四つん這いのまま操作パネルに手をのばし、ドアを開けっぱなしにして相棒を待った。
泉子はやってこない。まさか、転んだのでは?
カツシは立ち上がって、改札口にライトを当てた。
人の姿はなかった。
カツシは肺が破れそうなほど息を吸った。命惜しくて泉子を置きざりにしたわけではない。
改札を抜けて来た道を少し戻ると、泉子が口を押さえてへたりこんでいた。
カツシはなりふり構わず、泉子に口づけした。鼻を指で押さえることも忘れなかった。
息を吐ききると、自分から口を放し、苦しさにもがきながらエレベーター口まで走った。
半自動ドアは閉まっていた。
意識はもうろうとしていた。帰りの分を計算してなかった。ドアのボタンに手をかけることなく、カツシは膝をつく。前後がわからず、気づくとドアに背を向けていた。
「カツシ!」
追ってきた泉子がボタンを押す。
ドアが開くと、泉子はカツシに低くタックル。
二人はステンレスの部屋になだれこんだ。
ドアが閉まる。
泉子は肩をはずませながら、『23』のボタンを押した。
カツシは背中を打ったせいで息が吸えなかった。
地獄の中の地獄。
「あ……う……」
仰向けのカツシは、かすれた声で両手を天に突き上げる。
泉子はハッとした顔で振りかえると、カツシの上になって唇を押しあてた。
カツシは呼吸をとりもどした。
柔らかい唇が離れてゆく。
カツシは言った。
「鼻が痛いよ」
「バカ」
泉子は泣いていた。
その日の夜、千江は二人の前で大笑いした。
「大昔に毒ガス攻撃があったとしてもとっくに分解してるし、空気循環がないったって、真空になるわけじゃないのよ? 古い防毒マスクじゃ目が詰まっちゃうかもしれないし、変な菌やウィルスを吸わないように、ボンベ持たせただけなのに。先に言わなかったっけ?」
カツシと泉子は、話を聞いていなかった。
お互い目を合わすことなく、自分の唇ばかり気にしていた。
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作品名:A Groundless Sense(4) 作家名:あずまや