A Groundless Sense(3)
「そう。あと、さっきから耳鳴りがするんだ。ゴロゴロって低い感じの。体調は別に悪くないんだけど」
『あと五キロ何もなかったら、戻ってきなさい』
「了解」
通信を切ろうとしたその時だった。
カツシは影のようなものが迫ってくる気配を察した。
泉子の言葉がよみがえる。ま、まさか……。
「く、くるなっ!」
カツシは拳銃のトリガーを引いた。
爆音とともに、影の感じは消えてしまった。
『な、なに? 誰かいたの?』
「い、いや幻覚かも……」
『もう! 今はそれ、ダイヤより貴重なんだからね!』
「ごめん。よく確かめてからに……え? なんだ?」
一瞬、光の筋のようなものが目に入った。
『撃っちゃだめよ。どうせ幻覚なんだから』
「いや、そうじゃなくて……なんだろ?」
光の筋は目の高さよりやや低い、トンネルの壁からのびていた。さっきでたらめに撃った場所かもしれない。
光の点が向かいの壁に当たっている。その様子をたしかめた後、光る穴を正面からのぞいた。
「ぶわっ!?」
目に冷たい水がかかった。
しみる。痛い。なんだこれ?
光の筋はそれっきり、なくなってしまった。穴を見ても真っ暗だった。耳鳴りだけは相変わらずゴロゴロいっていた。
『なんなのよ、もう』
「わからない。あとで話すよ。通信終わり」
一キロ先に、詰め所があった。SAITO側と違った様子はなく、中はきれいなままで、ひと気もガイコツもなかった。不思議なことに、水道は上下とも生きていた。保存食も物置に残っていた。
カツシはさっそく千江に報告した。本隊が来るのをここで待つよう指示があったが、断固拒否して、途中で落ち合うことにした。千江は笑っていた。
「本当だってば!」
カツシは例の壁の穴の前で力説した。
光の筋があって、のぞいたら目にしみる水がかかった、と言っても、誰も信じてはくれなかった。証拠の水はもう乾いてしまっている。
「しょうがないなぁ。後でアタマだけ施術してあげる」
泉子は楽しそうな顔を残して先に行ってしまった。
千江は眠る蘭をカツシにあずけると、肩をまわしながら言った。
「でも、このゴロゴロは気になるわね」
「壁の向こうで水が流れてるんだよ、きっと」
「仮に水をかぶったのが本当だとして、なんで水道管でもないところからやってくるのよ」
「それは……」
それは知識の外側にあることだった。
「ま、なんにしても、安全を確保してから調査することよ」
そこに異論はなかった。カツシは蘭を背負うと、千江の後につづいた。
しばらく二人は黙って歩いた。
ふと、カツシは感じていた疑問を切り出した。
「あのさ、トンネルの外側って、どうなってると思う?」
「無よ。空白」
「無って、暗いの? 明るいの?」
「光もないんだから、暗いんじゃないの?」
「このトンネルって誰がつくったのさ」
「記録が残ってないわ。有史以前からあったものだもの」
この世で一番古い記録は、常識管理委員会が発足したというものだった。
「じゃあ、KY区域ってどうなの?」
「ああ、あれ? 今だから言えるけど、実は何もないの。ただの空き地よ。それとも無と有の緩衝地帯と言うべきかしら」
「ええっ!?」
夢を奪われたような気がして、カツシはがっかりした。
「空き地があって、あとはここと同じ。壁があるだけよ」
壁の向こうは余白、か。余白って何でできてるんだろう?
「ッツ!」
カツシは目をぎゅっとつぶった。両手がふさがっていて、痛む頭に触れられない。
「あわてないの。私だってずっと頭を痛めてきたことなんだから」
何日か前、千江は再生人の第一号であることを告白した。記憶を消され、洗脳されたはずなのに、それでも常識の外側に何かあると感じている。泉子はそれを直感を呼ぶが、その泉子でさえ、いや優秀なヒーラーである彼女の母でさえ、世界の外側のことは何も知らなかった。
「もしかしたら、再生人だけじゃなくて、俺たち人間はみんな……」
「その答えが出たときが、私たちの旅が終わるときよ」
カツシと千江は見つめ合った。
「絶対、逃げ切る」
「やっぱり、ここかな……」
プラットホームの行き止まりから遠く離れた、だだっ広い空き地の隅。岡崎ユタカは色の違う壁を見つめていた。
SAITOステーションの営業時間はすでに終わっていたが、常管の名の下に明かりは少し残させた。
構内にいるのは男と女の二人きり。
「ただの壁じゃないですか」
白いスーツ姿の少女は言った。
「そう思うかい?」
岡崎は歩いていって、壁に手をめりこませた。
「こ、これはKY区域の……」
「そう。墨田千江は常管に無断で立体映像機を使った。第二級常識破りだ」
実際には岡崎自身との共犯だった。しかし、こうなってしまった以上、千江一人に罪を背負わせることにした。捜査のためには多少の違反でも目をつぶる間柄。長崎蘭やKYUTOの謎を解きたいのは、千江だけではなかった。
SAITO内は捜査員総出で調べ尽くした。KANTO行きシャトルの乗員もすべてチェックしている。となると、考えられるのはここしかなかった。
「二級も一級もないでしょ? 再生所の心臓部を壊した長崎蘭を連れて逃げたんですから」
「違うな」
「えっ?」
岡崎は戻ってきて少女の肩を抱き寄せた。
「僕のミナトを殺そうとした、哀れなアラサー女さ」
男と女は見つめ合い、口づけを交わす。
ミナトは赤くなってうつむいた。
「し、仕事中ですよ」
「蘭一味の件が片づいたら、僕の部屋でつづきをしよう」
「……はい」
二人は拳銃を構えると、立体映像の壁の向こう側へ入っていった。
岡崎は携帯端末でシャトル管理局に呼びかけた。
すると、左右の壁の照明が次々と点っていき、トンネル内に光のラインができあがった。故障がなければSAITO圏内、つまり中間点までは闇に悩まされることはない。
男は口笛をふくと、局員に礼を言って通話を切った。
「まだ生きていたとはね。いい仕事してるじゃない」
再生プログラムによって、労せずして常管の機密を頭に叩きこまれたミナトは、閉鎖された路線の遺構を見ても驚くことはなかった。
ミナトはかがみこむと、平らなレールを覆う埃についた、微かな足跡を指でなぞった。
それを見ていた岡崎は言った。
「徒歩で逃げるとはね。いい根性してるよ、あの人」
「水も空気も通ってないKYUTOなんて、わざわざ死にに行くようなものじゃないですか」
「少なくとも蘭ちゃ……長崎蘭はKYUTOからやってきた。あそこにはまだ何かあると考えるべきだよ」
「追いかけるつもりですか?」
「お偉方から特命を受けちゃったんだ。やるしかないでしょ?」
岡崎は肩をすくめた。しかし緩んだ表情ほど、状況はたやすくはなかった。
千江は常管の機密を知っている。凡庸な参謀とはいえ、天才戦士の蘭と組まれると厄介だ。
「ま、まさか私たちも歩くんですか?」
「それもいいね。うす暗くてムードあるし、一緒に、どう?」
「も、もう……」
ミナトはまんざらでもない顔で下を向く。
作品名:A Groundless Sense(3) 作家名:あずまや