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A Groundless Sense(1)

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「どう?」
「触手にからまれてるみたいな感じ。あン……」
「ぶっ!」
 カツシは何かを想像してのぼせた。
「ウソ……初めてなのに、教わった通りに泳げる」
 前世の行いが良かったのかどうか、ミナトには泳ぎの才能があった。
「先、行ってるから、服とかよろしくね」
 一定のリズム、平泳ぎなのだろう、水かきの音が遠ざかっていく。
「よろしくねって……おい!」
 ミナトの黒いリュックは生活防水で、伸縮性にも優れていた。中身はナイフと厚めの携帯端末、その他用途不明の袋やら小物がいくつか。
「風呂場にナイフ持ちこんで、どうするつもりだったんだかな……」
 カツシはぶつぶつ言いながら、二人分の服や靴と、赤面しつつも下着を袋に詰めこみ、それを背負うと、冷たくもぬるくもない水道めがけて飛びこんだ。


 少年と少女は硬い壁に手を触れると、立ち泳ぎに移った。五十メートルの幅はどうにか泳ぎきった。
 ずいぶん横に流されてしまったと、カツシは思った。真っ暗でもそういう感覚はあった。
 風呂パンに手を突っこみ、ぺらぺら端末の明かりを点す。
 どこまでも水道に沿ったコンクリの壁が、水面から数メートルもの高さでそびえている。刃物で切ったように見事な平面。このままでは上がれそうにない。
「あっちへ行ってみよう」
 カツシは水の流れていく方を指した。
 ミナトはうなずきもせず、さっさと一人で泳いでいってしまった。
 おっと、そういえば水着じゃなかったんだ……。
 壁づたいに少し泳ぐと、細いパイプが一本、上の方までのびているのが見えた。パイプは水面の下までつづいている。
 二人は互いに背を向けたまま、一本のパイプにそれぞれ片手をかけた。
「えーと、あの……」
 カツシは仕方なく誰もいない方を照らした。
「リュック返して」
 どうやらミナトは先に上って服を着たいようだ。
 カツシは自分の肩に手をやった。あるのは濡れた左肩だけだった。
「あれ? ない?」
 行き止まりの壁に着くまでは確かにあったはず。肩ひもに一度触れた記憶がある。
「落としたの?」
「みたい……です」
 女のため息が一つ。
 沈黙。
 そよそよ水が流れてゆく。
 額に汗。
 怒鳴られるほうがまだマシだった。
「骨くらいは拾ってあげる」
 潜っていって、命と引き換えに取ってこいと、姫様はおっしゃるのだった。
「そ、そんな……」
「一回で取ってこれたら、ご褒美に……見てもいいよ」
「な……」
「見たく、ないの?」
 カツシは〇・三秒後には泡まみれになっていた。


 人間には潜るという才能も、天から与えられていたようだ。途中で耳が痛くなったが、いつの間にか耳抜きをしていた。カツシはパイプと壁の目盛りを頼りに、深みへ入っていった。
 水位十メートル(水面下十メートル)。底は見えない。ただ、パイプの出口があった。手を当てると、圧を感じた。謎に包まれたKY区域から引いているのだろうか。まさか……水の循環は完璧じゃない、とか?
 そんなことを考えている場合ではなかった。
 何としても、一回で! だ。
 天はなぜか、ふしだらな少年に味方した。ミナトのリュックは水位八メートル(水面下十二メートル)の辺りに刺さっていた金属杭に引っかかっていた。カツシは光る端末を口にくわえると、パイプをつかんだ腕を目一杯のばし、足の指先で黒いリュックを拾い上げた。
 だが、もう息がつづかない。気が遠くなってきた。
 ご褒美、ご褒美、ご褒美……ミナトの声の幻聴があった。
 なめらかな肌色の幻覚が広がった。
 そして……。
「ぶはっ!」
 しばらくは荒く息をするだけで、何も目に入らなかった。
 パイプにつかまりながら、つま先にあったリュックを拾い上げる。
 カツシは左手にした荷物と光る端末を、堂々と裸の少女に向けた。
 生きてて良かった。生まれてきて良かった。人生最高の瞬……。
「あれ?」
 ミナトはそこにいなかった。
「どう? あった?」
 ずっと上の方から女の声が響いた。
 カツシはそこに明かりを向けた。
 壁のてっぺんに、ミナトの顔と手先だけがあった。
 カツシはむすっとして、リュックを掲げた。
「フフ、なに怒ってるの?」
 ミナトは笑った。
「だって……見てもいいって……」
「何を?」
「だから……その……」
 ミナトは主語を言わなかった。まんまとやられた。
 悔しさを噛みしめながら、カツシはパイプをよじのぼっていった。
「ハァハァ……あれ? あんまり進まないや」
 想像よりずっときつい運動だった。ミナトはどうやって上ったのだろう。あんな細い手足で。
 それはともかく、ミナトはここを、あのまんまで、よじ上ったわけで……。
「なに、匂いなんか嗅いでるのよ!」
 カツシはあわてて残りを上りきった。


 ミナトは先に服を着て待っていた。ゴール直前でぜいぜい言ってるカツシから、サッとリュックを奪ったのだ。
 カツシは頂上に片足を引っかけ、どうにか体を引き上げ、そして立ち上がった。
「ハァハァ……手くらい貸してくれたって……」
 口が渇いてそれ以上言えなかった。
「見て」
 ミナトは水道を背にしていた。視線の先には、天井までつづくガラス様の壁があった。壁は曇っていて向こう側は見えない。昼間、最も外側の環状道路から見える、そのままの姿だった。
 ぱっと見たところ入口は見当たらない。
「事実上の世界の果て……か」
「……」
 ミナトはそれからずっと黙ったままだった。
 服を着たカツシは、前へ回りこんで少女の顔をうかがった。
 黒いめのうの瞳はガラスの障壁を睨みつけている。
「どうしたのさ」
「私たちが映ってない」
「なんだって?」
 たしかにミナトの言う通りだった。ガラスは光を反射するものだ。カツシは光る端末を上下させたが、何も変わりなかった。
 ミナトは不意に、ガラス壁に向かって歩きだした。
「ヤケになって頭打つなよ?」
 カツシの冷やかしを無視して、少女はガラスにぶち当たった。
「!」
 ……かと思いきや、姿が消えてしまった。
「ミナト?」
「何もないよ。『こっち』は」
「こっちって……」
 カツシはおそるおそるガラス壁に近づき、手をのばした。感触がなかった。
 常識上の世界の最果ては、ただの立体映像だった。とはいっても、暗くなれば環境に合わせて見えなくなり、そうかと思えば端末の小さな光にさえも反応する、リアリティを追求した技術の結晶だ。
 カツシは一歩踏み出した。
 何もなかった。本当に何も。
 まるで夢の中に出てくる、果てのない闇。
 ガラス壁の向こう側は、平らな床と暗闇が、小さな光の届く限り広がっていた。
「どういう、ことなんだ? これがKY区域? あんなに恐れられていた?」
「私に訊かれても」
 ミナトは自分の端末の光を頼りに、ひたひたと暗闇を突き進んでいった。
「気をつけろよ。この世とあの世の裂け目があるかもしれない。有毒ガスが充満しているって説もあるし」
「誰が調べたのよ、それ」
「いや、都市伝説だけど」
「それで?」
「べ、別に」
 カツシは急に恥ずかしくなった。ガラス壁の曇りが『有毒ガス説』の根拠だったことを考えると、噂はもう当てにはできなかった。
作品名:A Groundless Sense(1) 作家名:あずまや