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A Groundless Sense(1)

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 ヘッドライトが遠くに見えた。障害者用の終バスか、それとも警備委員か。現存する車といえばそんなところだ。
 カツシは道路側に飛び降り、どこかに隠れようとミナトの手を引い……。
 見慣れた人影がない。
「あれ? 板橋?」
「なにしてるの?」
 ミナトはなぜかフェンスの向こう側にいた。
「な、なんだよ」
「ごめん。後がないって思ったら、できちゃった」
 カツシは金網をがしがし上って下り、草地に伏せた。
 電動モーターの音が近づいてくる。
 息をひそめる二人。
 カツシがさらに身を低めようとしたとき、ミナトがつぶやいた。
「板橋っていうの、やめて」
「なんでさ」
「いいから」
 車が通過した。どうやら終バスの方だったようだ。
 カツシは立ち上がると、埃を払いながら言った。
「じゃあ、俺もカツシでいい」
「やだ」
「なんでだよ」
 ミナトは聞いていなかった。つま先で草場をつついている。
 カサカサした音に、途中からゾゾッと硬い音が加わった。
「人工草だ。見つけた」
 カツシは手触りの悪い草をつかんだ。直に触るまでは区別がつかない、精巧な作品だ。命をかけた者だけが知り得る秘密だった。
 偽の草を引っ張り上げると、ウレタンの塊のようなものが一緒にくっついてきて、マンホールがあらわになった。
 それを見るなりカツシはうなった。
「げ、聞いてないよ」
「どうしたの?」
「電子ロックがある」
 情報にはないものだった。最後の勇者が失敗した後に、役人が取りつけたのだろうか。
 電子ロックは八桁の数字をテンキー入力するだけの簡素なものだったが、その道の専門家ならまだしも、出来合いの仮想世界に浮かれてきた一介の高校生などに破れるものではなかった。
「そういうことなら……」
 ミナトは背中のリュックから、厚めの電子端末を取り出した。何回か画面を触ると、鍵束を持った悪そうな猫の画像が現れた。端末をマンホールに近づけると、ガチャと金属音がした。
「便利なアプリでしょ?」
「そんなヤバいもの、どうやって手に……」
「システム破りは、たしか極刑よね?」
「……」
 死に方を研究していった末の功名とは……。カツシは別の意味で頭が痛くなった。
「と、ともかく入ってみよう」
 カツシは重いマンホールを開けた。
 金属のタラップが、闇の底に向かってつづいていた。


 手探りでタラップを下りきったカツシとミナトは、流水の音を聞いていた。
「案外いいものね。見えないと」
 ミナトは言った。
「何のこと?」
 カツシは携帯端末のディスプレイを照明代わりに点した。全体が光るので、暗がりでは黄金のカードを手にしているような感じだ。
 暗渠の水路と、その脇に沿った狭い足場。出口の先には大きな水道があった。水道の方がわずかに上を走っているようで、支流が暗渠の奥へ向けてコンクリートの斜面を下っている。
 ミナトは不機嫌そうにため息をついた。
 何を怒っているのか、カツシにはよくわからなかった。
 二人は狭い足場に気をつけながら、暗渠の出口へ向かった。
 水面より一メートルほど高いコンクリートの縁に立って、カツシは言った。
「カワって、こういう流れのことをいうのかな?」
「私に聞かれても」
 ミナトはネットの辺境に伝わる古い言葉には興味を示さなかった。
 少年は端末の明かりを消して、腕組みした。
「にしても、五十メートルかぁ……」
「五メートルだって泳げないでしょ? 人間は」
「常識ではね」
「泳いだこと、あるの?」
「夢の中で溺れたことならある」
「バカね」
 ミナトは壁にどっと背をもたれた。
「でも、その時は冷蔵庫より寒くて、この流れの倍はあったな。体力がつづかなくて、途中で死んじゃった。仮想世界で会ったヒーラー見習いの子にそのことを話したら、前世の記憶に違いないって力説してたよ。あ、ちなみにヒーラーってリアルの属性の方ね」
「バカバカしい……」
 ミナトは額に手をやった。
 実際にはヒーラーという職業は存在しないことになっている。常識管理委員会は非科学的な職業を一切認めていなかった。
「とりあえずその水路で練習してみるか。これ持ってて」
 カツシは端末をミナトに渡すと、もそもそ服を脱ぎだした。
「え? あ、ちょっと!」
「いいよ。明かり点けて」
「よくないでしょ!」
「大丈夫だって。『はいてる』から」
「ああ……」
 ため息と共に、ミナトの右手の辺りが光った。
 カツシは赤い『風呂パン』一丁だった。エネルギーと水節約のため、居住区の風呂はみんな共同大浴場だ。混浴のため、そこでは水着を装着するのが常識だった。ちなみに辞書を引くと、水着は風呂場で身につけるもの、とだけ書かれている。
 水路の深さは、ペンキの目盛りから一二〇センチとわかった。カツシは身長一七九センチ。
「余裕で立てるな。まずは浸かって慣れる」
「ちょっと待……」
 ドボン!
 ミナトの引き止めは遅かった。
「れ、れれ?」
 カツシは暗渠の奥へ一歩ずつ運ばれていった。水の力のことが、まるで頭になかった。
 立つには立っている。が、前に進めない。このままではスタミナを消耗するばかりだ。
「練習するんでしょ!」
 ミナトの声にハッとした少年は、水底から足を離し、手足をばたつかせた。
「も、もがっ!」
 進むどころか、水をたらふく飲んで沈んでしまった。まさか背の立つところで溺れ死ぬとは……。 
 薄れいく意識のなか、どこからか裸の天使が降りてきて笑った。
「あなたはこれまでに八十六回溺れてる。でも、ンニャララ(聞き取れない)カイキョーを半分渡ったこともあるよ」
「な、なんすか、そのナントカカイキョーって」
「いいところよ。美しい場所」
「美しい……場所。そんなの……この世界になんか……」
 悔しいな。見られずじまいなんてさ。
 体が光に包まれていく。ああ、これで俺もあの羽の生えた裸娘のように……。
 そのとき、天使は少年の後頭に飛び蹴りを放った。
「痛てっ!」
 コンクリの水底に頭をぶつけた。
 あれ? なんか急に思い出した。
 気がつくと、カツシはクロールで泳いでいた。息継ぎの仕方も、名前もわかる。習った事ないのに、なぜ?
 少年はミナトのいる所まで泳ぎ進むと、ざばっと立った。
「人間は、生まれつき泳げるらしいな」 


 ミナトは水着を持ってきていなかった。まさか泳ぐ、つまり不可能に挑むことになるとは思っていなかったようだ。広い水道を越えなければ先へ行けないことは、知っていたはずだが……。
「秘密の抜け道があるんだと思ってた」
 仮想世界では、設定上どうしても立ち入れないゾーンがいくつか存在するが、そこをこっそり抜ける道はあるにはあった。だが、代々の勇者の記録によれば、現実世界にそんな都合のいいものはなかった。
 カツシは言った。
「諦めるなら今のうちだよ」
「今日はまだ死にたくない」
 ミナトは言うと、服を脱ぎはじめた。スカートに手をかけたとき、ぼそと言った。
「見たら、刺すから」
「……」カツシはそそくさと端末の明かりを消した。「でもさ、向こうがもし明るかったら、どうしてもさ……」
 ドボン!
「そのときは、そのとき」
 水をかく音がした。溺れた様子はないようだが……。
作品名:A Groundless Sense(1) 作家名:あずまや