赤い瞳で悪魔は笑う(仮題) ep1.病院と兄妹
「はい、雨夜君の分のお食事ですよー」
語尾にハートマークをつけたような言い回しで、この病室の担当の看護師が病院食片手にやって来た。病院内の綺麗どころ、ねえ。
礼を言いながら、俺は紅也の言葉を思い出していた。まあ確かに、美人といって良いだろう女性ではある。……でも。
「はい、雨夜君、あーんして」
――…………。
「あれ? 食欲ないのかな? じゃあおかゆに変更して――」
――いえ、結構です。一人で食べられますから。
「あらそう? 良いわ、雨夜君がそう言うなら仕方ないわね」
分かったよ、と言って看護師は身を引いた。微かに花の香りがした。
「私の助けが要りそうなときは、ナースコールで呼ぶのよ」
最後にウインクをして、看護師――至夏(いたるか)みちるさんは、カーテンを勢いよく閉めていった。
――…………。
あの性格は、一体どういうことなのだろう。「あーんして」、って。俺は幼稚園児か。
少しウェーブのかかった茶髪を後ろで束ねており、好奇心一杯の丸く大きな黒い瞳を輝かせ、いつでも自信に溢れた態度で歩く、至夏みちるさんは、そういう人だ。確かに、美人である。
でも。
それでも、紅也には敵わない、と思ってしまう俺がいる。……あいつは男だけど。
ま、あいつ人間じゃないしな。多分、あの体も自分で創ったものだろう。美的センスはなかなかです、ってか。
…………それにしても、と、食事に手をつけながら考える。勿論、今、隣でみちるさんの拷問にも等しき所業の格好の餌食になっているであろう、アラタ君のことである。
ああ、気の毒なアラタ少年。あの赤い悪魔に一目惚れとは……。外見だけで言えば、確かにあいつは女子にしか見えない。でもなぁ……さっき、あいつは学ランを着ていたはず。男子制服着用でも、女子――しかもアラタ君の言によると美少女――に間違われるあいつは、やはりアクマだ。
アラタ君は、素直で良い少年だ――と、思う。少なくとも、見た人間にそう思わせる雰囲気を携えている。まあ、俺はそういうものを上手く感じ取れないので、それは本当に、見たままの印象に過ぎないのだが。だから、『気の毒な』アラタ少年、というのも、印象を言葉にしただけであって、俺の感想、というわけではない。
俺の言葉はいつもそうだ。
何を言っても、現実感を伴わない。何をしても、何をしていても。俺に、関心というものが、欠けている限り。
多分、一生こうなんだろう。
『君は、僕と似ているからね』
紅也の言葉が浮かぶ。あいつが? 俺と、似ている……?
んな馬鹿な。
一笑に付す。一体、どこが似ていると言うのだろう。俺と、あの悪魔が……。
そういえば――……。
「それじゃ雨夜君、お大事に」
ウィンクどころか投げキッスまで寄越してくれたみちるさんに軽く笑って、カーテンを閉めて。みちるさんの、去っていく足音を聞きながら。
俺は、紅也が残した本を持ち上げる。普通のハードカバーと同じサイズで、表紙に何も書いていないという以外は、本当に極々普通の本である。……いや、悪魔がくれたというだけで、もう普通ではないか。
…………さて、読むか。
そう思って、本を開いた、それと同時に。
病室は、真っ暗になった。
「あの……、更衣さん?」
僕がおずおずと声を掛けると、更衣さんの落ち着いた声が返ってきた。
――なんだ?
「えっと……、消灯時間、早すぎません?」
――だよな……。俺の勘違いかと思ったんだけど、……やっぱ、おかしいよな。
真っ暗闇。窓際の更衣さんはそうでもないのかもしれないが、僕のほうはそうもいかない。正に、自分の手すら見えない本当の暗闇。
――さっさと寝ろ、ってことじゃあ……ないよな、やっぱり。
「ですよねー……」
どうやら、消灯されたのはこの病室だけではないらしい。廊下を伝って、他の患者のざわめきが聞こえてくる。
ナースさーん、どうなってんの……?
何? 停電?
消灯時間じゃないですよね……。
そんな感じで、皆ざわめいている。
「何でしょう……」
――まあ、そう不安がることもないさ。大方、照明器具の不備だろう。停電だったとしても、すぐに予備の発電装置が動き出すさ。
あくまで落ち着き払った更衣さん。
「……それもそうですけど」
しかし、何故こうも更衣さんは落ち着いていられるのだろう。性格、なのかな。時々いる、若いのに老成した感じの……更衣さんも、そうなのかもしれない。
とか何とか考えているうちに。
『チカチカッ』と音を立てて、電気が復旧した。
「あ、灯きましたね」
――本当だ。
「何だったんでしょうね……、あ、至夏さん」
――え? あ。
更衣さんの呟きと同時に、至夏さんの声が響いた。
「皆ー、御免なさい、驚いたでしょう?」
その声に呼応して、同じ病室に入院する患者達が一斉にざわめきだす。
まったくじゃ、みちるさん。一体何があったんだい。
みちるちゃーん、怖かったよーぅ。
お年寄りの入院患者が、まるで至夏さんを神として崇める一神教の信者のようにどよめいた。それに答えるように、みちるさんは笑顔で病室の全員に呼びかけた。
「何かこちらの手違いで照明の電気だけ落としてしまったみたいなの。だから、機械が壊れたり止まったりはしていないから、安心して」
一斉に安堵のため息をもらす患者達。至夏さんは向日葵のようににっこりと笑って、それじゃあおやすみなさい、と言い置いて、また去っていった。どよめきはすぐに収まり、老人患者達は静かになる。
「何だ……、機械の操作ミス、とかですかね」
――…………。
僕は更衣さんに向かって言ったつもりだったのだが。
沈黙以外、何も返ってこない。
「あのー、……更衣さん?」
さっきとそっくり同じ言い方をしてしまう自分の語彙の乏しさに赤面しつつ、僕は再度声を掛ける。
「えっと……」
――アラタ君、悪い、俺ちょっと便所行ってくる。
「え、あ、はい」
ぎし、とベッドが軋む音がして、また静かになった。病室から出て行ったのだろう。老人患者達はもう寝てしまったようで、病室内で起きているのは、僕だけになってしまった。
もう、何の音もしなかった。
作品名:赤い瞳で悪魔は笑う(仮題) ep1.病院と兄妹 作家名:tei