鋼鉄少女隊 完結
「そこなら知ってる。多分そうだと思う。去年、うちの両親と日帰りで行ったとこよ。この近くよ。だから、方向はこっちで合ってたのよ。でもすごい山の中で、今でも秘湯てとこかな。S温泉てとこよ。ただ季節や天候によっては川の露天風呂は入れないよ。増水してたら無理だから。私が行ったときも雨が続いた後で入れなかった。だから、近くの旅館の露天風呂に入って来たの」
ミニバンは彩の指定したS温泉へと向かう。彩が言うように、渓谷沿いの道を行くと、その温泉は現れた。数件の旅館のうち、春江が50年前に泊まったという旅館はもうやっていないようだった。そのため、彩が日帰りで入った露天風呂のあるところに泊まった。
予約もしていなかったが、平日のため部屋は空いていた。
川の露天風呂は秋の渇水期であったため、支障なく入れた。川底から吹き出る熱い温泉を流れる川の水が冷ましているので、場所によっては熱すぎるところやぬるいところがある。自然のプールのようなだだ広い混浴なので、女性は水着着用となる。
水着は、彩に教えられ途中で買っていた。チェックインした旅館がバスローブを貸してくれて、それを羽織って河原の温泉まで下って行く。平日の午後三時頃だったが、川の露天風呂には誰も居なかった。
春江が子供のようにはしゃぐ。
「ここよ! ここ。私が来たのはここ。彩さん、ほんとにありがとうごさいます。あなたが教えてくれなかったら、たどり着けなかったかもしれませんから」
旅館に戻り、四人は夕食をとる。午後八時頃、雪乃と彩は旅館で懐中電灯を借りて、再び川の露天風呂に向かう。春江と美咲はついて来なかった。
川の露天風呂には照明が無かったが、昼間来ていたので懐中電灯の明かりで、丁度いい湯加減のところへ行き、二人で足を伸ばしてゆったりと浸かる。
空は一面満天の星。銀河は白い帯となって伸び、遙か頭上に、巨大なシャンデリアが下がっているような気がする。
星明かりの中で、彩がたずねる。
「ねぇ、雪乃ちゃん。瞽女になって旅してみて、何か得たものってある?」
「え? そうですねぇ……。なんだろ。やっぱりライブが一番って思ったことかな」
「なに? それ」
「私、最初は瞽女の唱法とか声の出し方とかそんな技術的なものに興味持ってたんですけど……。なんだろ……。瞽女唄を直に人に聴いてもらって……、やっぱり、音楽の命はライブじゃないかなって思ったんです。CDとかDVDやテレビで聴く音楽って、音源でしかないって思ったんです。お客さんも実は音楽に参加して音楽を構成してるんだなって思いました」
「ピュセルのコンサートなんか、そのとおりよね。お客さんがのってくれるから、私達も普段以上の力を出してしまうものね」
「そうですよね。同じ空間に居て、聴いてくれるってのは、すごい力になりますよね。私休みの日はアコースティックギターをよく近くの海岸で弾いてたんですけど、自分の弾いているものを自分一人で聴いているときと、たまたま近くに人が来て、私のギターの音をじっと耳を澄ましてくれてるときとでは、全然別ものって感覚がありました。誰かが、聴いていてくれるときって、やっててすごく幸せなんです」
「あ、わかる。何て言ったらいいか説明できないけど……、誰かが見て聞いて居てくれる方が、多幸感があるよね」
「的外れなことかわかりませんけど……。お祖父ちゃんが持ってた本の最初のほうだけ読んだときに書いてあったんですけど……。誰も居ないシベリアの原生林の奧で、一本の木が倒れた。その時、発した大きな空気の振動は、果たして音なのだろうか? って」
「なに? それ? よく意味がわからない」
「つまり、大きな音がしたはずだが、誰もその音を聞かなかったから、それは音じゃないっていうのを、認識論っていうそうです。観察する者との相互関係で物事は存在するって立場らしいです。逆に誰も聞いていなくても、その空間に大きな音が響いたって、いうのが実在論って立場らしいです。物事は無条件で存在するんだって立場です」
「なに……? 難しいね。それって、哲学とかなんかなの?」
「いえ、物理学の本の最初の前書きでした。物理学のほうでも、物質は観察する者との相互関係で存在するっていう認識論と、無条件で物質は存在するっていう実在論が、ずっと議論されて来てるらしいです。原子よりも小さい素粒子とかのレベルでは、観察すること自体が影響を及ぼしてるっていう立場で、なんか……、量子力学っていうものの解説に入って行くんですけど、確率とか数式とかいっぱい出てきたので、読めませんでした」
「ごめんなさい。私には全然わからないわ」
「すいません。私、きっと生半可な知識で的外れなこと言ったんだと思います。でも、物事はそれ一つだけでは存在出来ないって感じ、言いたかったんです。聴衆も広い意味で音楽の一部なんだって感じ……」
雪乃は続ける。
「音楽でも、細かく言うと、まず純音ってつまらないですよね。音叉とかは単一の周波数の音しか出てませんけど、聞いてて貧しいですよね。美しい音とか、自然の音には高次倍音が入ってますよね。その音の基本の周波数の整数倍の高調波がいっぱい混じってますから。そういう美しい音でさえ一つでは寂しいですよね。旋律として前後の他の音程の音と連続してこそ美しいですよね。さらに和音って響きがなんとも言えず美しくて豪華な感じしますよね。その和音が連続してトニック、ドミナント、トニックと移っていったとき、すごく幸せな感じしますよね。」
トニックとは安定感を感じさせる和音。ドミナントとは不安定な感じの和音。安定、不安定、安定と移ったとき、聞く者は緊張から解放された平和な安心感に包まれる。
雪乃はふと思いつき話を逸らす。
「トニックか……。あ、わかった! 今日久しぶりに彩ちゃんに会ったとき、なんか違うなあって感じしたんですけど。今わかりました。彩ちゃんはトニックなんだって。今、彩ちゃんはトニックなんですよね」
彩は微笑む。
「うん。雪乃の言ってる意味わかる。そうね……。私、和音の進行で言えば、安定したトニックに戻ったのかな」
「なにかいいことあったんですか?」
「わかるんだね。そう、いいことあったの。とってもいいこと」
「ふーん。それって、今聞いてもいいことですか。まだ、聞かないほうがいいですか?」
彩は社長の田口との間にあったことを話す。ピュセル卒業の話と、田口と初めて親子として確認し合ったことを。
「雪乃ちゃん。私ね、今度のことで思ったの。こんな23そこそこの女が口に出すのも、おこがましいんだけど、人生ってカデンツなんだなあって……」
カデンツとは和音進行の安定、不安定、安定というサイクルのことをいう。
「私、今まで、どうして生まれてきたんだろうって思って悩んだことばかりだった。嫌な思い出もいっぱいあったし。でも、私の人生にあった全ての不安定な和音、ドミナントやサブドミナントはこの美しいトニックに戻るためにあったんだって思ったの。人間の一生って音楽なんだって。だからね、今までいろんなことあったし、これからも、いろんなことあるだろうけど、全ては私っていう音楽の要素として受け入れることにしたの」
雪乃は肯く。