鋼鉄少女隊 完結
雪乃は後を向くと駆け出す。車が猛発進する。周りのコンクリートの壁に車体がこすれ火花を散らす。車の速度にかなうわけもなく、雪乃は絶望的な全力疾走を続ける。路地の出口まではとても間に合いそうになかった。
雪乃の右手のビルには外国映画でよく見るような、外壁に沿って後付けの鉄骨式の非常階段があった。屋上から二階まで続き、一階部分には二階踊り場から跳ね上げ式の階段を降ろすようになっている。あそこまで、全力で走って、二階踊り場の鉄骨に飛びつけば助かると思う。しかしまだ距離はある。猛烈なエンジン音と、壁を車体がする激しい音が真後ろまで来ている。
間に合わない。雪乃はとっさに、右の壁にジャンプして、壁の表面を横走りする。丁度右の壁を地面のようにして、体は完全に真横になり地上1メートル以上の高さを走る。その瞬間、NSXの屋根が雪乃の左肩の横をすざまじい速さで通り過ぎて行った。横走りに走ったのは三歩ほどだったが、そのタイミングで車が通り抜け、九死に一生を得た。
横走りのまま、非常階段の二階の鉄骨の踊り場に飛びつく。それから、非常階段によじ登る。
壁の横走りは、中学時代の雪乃の隠し芸だった。新体操部の練習時、顧問の教師がいないすきを狙って、助走をつけて体育館の壁を横走りして、そのままバスケットのゴールの鉄パイプに飛びつきぶら下がっていた。丁度鉄骨の非常階段が設置してあったのと、ホンダNSXの屋根の高さがスポーツカーのため1メートル16センチと非常に低かったのがラッキーだった。
雪乃は非常階段の二階踊り場に上がると、背中のデイバッグから携帯を取りだす。雪乃をひきそこねて、通路の向こう側の出口で止まっている車の写メを撮ろうとする。その気配を察したか、車は急発進して右折して逃げて行った。
雪乃はすぐに会社に連絡する。ほどなく、社員達がかけつけてくれ、雪乃の周りをガードしてくれ社内に入ることが出来た。
社長が申し訳なさそうな顔をする。
「すまない。君を危険な目に遭わせてしまった。金沢のバックの連中はあいつらを統御できていないようだ。私が甘かったよ。しかし、君の身体能力には恐れ入るなぁ。壁を横走りしたのか」
雪乃は少し照れる。
「はぁ、芸は身を助けるっていうのでしょうね。でも、あそこに非常階段があったかのがラッキーでした」
「いや、本当にすまない。警察に被害届けをとも考えたのだが、残念ながら所轄の警察の中に奴らの息のかかったのがどれだけ居るのか掴めていない。君が現場検証にでも連れ出されるのも危険と判断した。今日はずっと社内で居てくれ」
「はい。今日はファンクラブイベントのグッズの写真撮影ですから、ずっと社内にいます」
「そうか。早急に非常手段に出る。今度こそ奴らが二度と君に手を出せないようにする」
「金沢のケツ持ちやってる組織に交渉するんでしょうか?」
社長が嫌な顔をする。
「ケツ持ちなんて下世話な言葉はやめてくれ。君は何も知らないでいてくれ。奴らのケツ持ちじゃない。もっととんでもない位の上のほうに話をつける。それと、今回の件も前回同様、ピュセルのメンバー達には秘密にしていてくれ」
「はい、わかってます。誰にも言ってません。麻由もあれ以来大人しくしてレッスンに励んでます。それと、麻由のこと許していただいて、ありがとうございます」
社長は肯く。
雪乃は何事もなかったように、その日一日、ピュセルのメンバー達との写真撮影をこなした。
夕方、社長に呼び出され、会社の車で出かけることになった。朝、社長が言っていた、どんでもない位上の方の人物に会いに行くとのことだった。その人物が雪乃本人に会いたいと言ったらしい。
車は閑静な高級住宅街を行く。広大な敷地の日本家屋の前で止まる。周りは白壁の塀で、武家屋敷のように頑丈な木の門がある。車の助手席からチーフマネージャの男性が降りて、インターホンで呼び出す。門のあちこちに監視カメラがセットしてある。
門が開き、車は中に入る。10メートル程行った大きな玄関前で車を止めて、社長とチーフマネージャ、雪乃は降りる。応対に出てきたがっしりした体格の長身の背広姿の男が申し訳なさそうに言う。
「申し訳ございません。先生は今、碁を打っている最中で、お約束の時間ですがしばらく控えの部屋でお待ち下さい」
雪乃たちは男に案内されて、控え室に入る。応接セットのテーブル、ソファー、椅子がある。そこで茶を出されて、十五分ほど待たされた後、またさっきの男が現れる。
「お待たせいたしました。ご案内いたします」
雪乃たちは長い廊下を通る。ところどころに長い槍や弓が鴨居の上に架けてある。どうやら、本当に古い武家屋敷を解体して持ってきて、ここに立て直したようで、柱や廊下などの木は磨き抜かれているとはいえ、古さを感じさせた。
一人の長身の男が傍らを通り過ぎた。この家の主の先客で、碁を打っていた相手らしい。雪乃達は頭を下げる。男は軽く会釈して通り過ぎる。
雪乃はその男が誰かを思い出す。数年前はよくテレビのニュースに出ていた人物だ。三代くらい前の内閣総理大臣だった。今から会うことになるこの家の主とは何者なのかと興味をそそられる。
控え室で社長は雪乃にこの人物のことを一言も話してくれなかったのだ。知らなくていいとのことだった。その人物が直接、雪乃に会いたいということを、社長もけげんに思っているのが伺われた。まぁ、これもオーディションのようなものかと腹をくくった。グリーンプロモーションのオーディションを受けるときも、ほんとうに誰だかわからない人達の面接を受けたわけだしと。
十二畳の広さの和室に通された。床の間を背にして、一人の高齢の老人が座っている。その服装は着古された灰色の背広を着ている。ネクタイをしていないワイシャツの首のボタンはきっちりと閉められている。着古されてはいるが、こざっぱりとしていて、質素な服装だった。
その傍らに足つきの碁盤があり、今さっきまでの対局の白黒の石がびっしりと置かれていた。
社長の田口とチーフマネージャが正座して、深々と頭を下げる。雪乃も慌てて後に続く。凜とした張りのある声が響く。
「その子が村井雪乃か?」
「はい。さようでございます」
「田口。貴様の申し出は了解した。そういうように取りはからっておく。ところで、すこしその子と二人きりで話をさせてくれ」
「あ、それは……」
「何も取って喰おうといってるわけではない。田口! おまえ、わしがそんな孫のような子供に手を出すようなヒヒ爺と思っとるのか? それにわしの歳を知ってるだろう!」
「いえ、滅相もございません。なにぶん17才の若者なので、ご無礼なことを申し上げてたらと心配いたしまして……」
「そんなことに腹は立てん。心配するな。あいつらをキリキリ舞させた女の子というのに、興味を持った。いろいろ話をきいてみたい」
社長とチーフマネージャは不安げに出て行く。後に残された雪乃は、この老人の眼光の鋭さに戸惑う。獲物を狙う鷹の目。そういう目が雪乃に注がれていた。雪乃は思わず、その注視を碁盤のほうにそらせようとした。
「先生、碁石片付けさせてください」
老人は傍らのびっしり碁石で埋まった碁盤を見る。