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亡き王女のためのパヴァーヌ  完結

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最終章 亡き王女のためのパヴァーヌ



 その年の初夏、由紀は日本に戻ってきた。由紀がフランスの病院で目覚めたとき、医者はもはや何も言わなかった。由紀の回復は医学の常識を覆していたからだ。全身に転移していたガン細胞は全て消え、由紀は完全な健康体となっていた。
 母と二人ひっそりと日本に帰って来た。しばらくして、由紀のオリンピック金メダルは剥奪された。その上スケート界からも永久追放となった。
 理由はドーピング疑惑だった。由紀が冬期オリンピック女子フィギュアスケートのフリー滑走後、ドーピング検査を受けていないというのが理由だった。
 要はスケート界は由紀が起こした一連の不可解な事件を全て不正と片付けてしまいたかったのだ。由紀の体からの光は特殊な発光ダイオードをコスチューム内蔵していたとか様々ないちゃもんがつけられた。
 由紀は何の抗議もせずに、メダルを返上しスケート連盟を脱退した。マスコミは四年前の冬期のオリンピックでの下位成績の時以上に由紀を叩いた。日本の恥とまで言われた。
 しかし、由紀には何の感慨も無かった。二千年の寿命を持つ者にとっては、この一時の波風など些細な事に思えた。

 夏が過ぎ、秋となったある日、由紀は外出した。その留守にスケートの先輩の前川綾乃が尋ねてきた。
「前川さん、すいませんね。由紀、突然、出かけてしまったんですよ。由紀の携帯に連絡してみます」
「あ、お構いなく。近くまで用事があって来ましたので。由紀ちゃんが元気そうなら、私も安心ですから。スケート連盟との一連のごたごたがあって、気が滅入ってるんじゃないかと心配していましたが、外出するようなら、何よりです」
「ご心配おかけして申し訳ありません。それが、本当にさばさばしたものなんですよ」
「私、スケート連盟に働きかけて、由紀ちゃんが復帰できるようにと頑張ってはいるのですが、なかなかうまく行かず……、申し訳ありません」
 由紀の母は頭を横に振る。
「いえ、そんな……。ご尽力ありがとうございます。でも……、申し上げにくいんですけど……、本人はもうスケートに戻るつもりはないようです」
「えっ! そうなんですか……。残念です、あれほどの才能なのに。それでは、今後由紀ちゃんはどうされるんですか?」
 由紀の母は深いため息をつく。
「それが……、ピアノの調律師になりたいそうです」
「調律師ですか……。それって簡単になれるものなんですか?」
「別に資格とか免許というものはないんですけどね、各楽器メーカの研修とか認定試験みたいなものはあります」
「どうして、調律師なんでしょうか?」
「それが……。フランスから帰ってきて、あの子二週間くらいぼーっとしていたんですけど、突然物置から私の母のピアノをひっぱり出して来たんですよ。グランドピアノじゃなくてアップライトピアノですが、230キロはあるものなんですよ。いくらキャスターがついているとはいえ、あの子一人で引きずり出して来て、廊下に置いて調律始めたんですよ。実は、死んだ主人が調律師だったので、道具もありますし、あの子も小さい頃主人の仕事眺めては、おもしろ半分に調律の仕方を教わっていたんですよ。大丈夫かと思ってたら、見事にチューニングしましたよ。それから、ずっと毎日ピアノを弾くようになったんですよ」
「由紀ちゃんはピアノが弾けたんですか?」
「それが、子供の頃は弾いてたんですけど、スケートを本格的にやり始めてからは、全く弾いてませんでした。昔は大したこともなかったんですけど、今弾いているの聴くと、ピアノ講師の私が驚くほどうまいんですよ。最初は、あの子がショートプログラムで使った、ラベルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』ばかり一日中弾いてたんですけど、次第にショパンやリストの曲も弾くようになりましてね、それはテクニックもすごいんですけど表現力もすばらしいんですよ。いつの間にこの子、こんなにピアノうまくなったのかと不思議でしたよ。それで、私、あの子に、ピアニストになるつもりかと聞きましたら、調律師になりたいと言ったんですよ。もう、多くの人達の前に出るようなことはしたくないと言いました。お父さんと同じこういう音楽の裏方のような仕事がしたいそうです。小さい子供の頃、主人の仕事ぶりを見ていて、ずっとやりたかったそうです。主人はピアノの調律の工房やってまして、子供の頃はそこによく出入りしてたんですよ。今は主人の弟子だった人が後を継いでやってますが、あの子もその方に頼んでそこで修行させようかと思ってます」
「そうですか……、なににしろ、由紀ちゃんが新しい目標を持って元気にやっていることで安心しました。で、今日はその工房のほうに行ってるんですか?」
「いえ、それが今日は、病院に入院したときのお友達のところに行ってるんですよ。かなりご年配の方らしいんですけどね」

 由紀はその頃、福井老人の住む川沿いの公園を歩いていた。福井の居場所は知っていた。あの病院の銀杏の木の下で、福井のここ10年分くらいの記憶を吸い取っていたからだ。
 福井はブルーシートを張ったテントの側、川沿いの鉄柵前で釣りをしていた。日よけにビーチパラソルを立て、キャンバスチェアに座り、リールの着いた竿を鉄柵に金具で固定してのんびりと水面を眺めていた。
「福井さん!」
 老人が眩しそうな目で由紀のほうを振り返る。
「ああ、由紀ちゃんか。どうしたの? ここよくわかったね」
「福井さんの記憶が少し私の中にありますからね。でも、なんか優雅な生活ですね。こんな釣り道具って高いんでしょう?」
「ああ、これは全部タダ。粗大ゴミの中から釣り道具も椅子もパラソルも見つけたんだよ」「へぇ、こんなもの捨てちゃうんだ。もったいないね」
「そう、おかげで、わしのようなホームレスがこんな優雅に釣りできるわけだよ」
 福井は立ち上がる。
「由紀ちゃん。あっちのベンチに行こう」
「でも、釣れたらどうするんですか? ついていないと……」
「だいじょうぶ。竿固定してあるし、穂先に鈴つけてあるし、それに昼間はほとんど釣れないんだよ」
 由紀は福井に促されるままに、少し離れた公園のベンチに行く。
「このあたりはねえ、スズキが釣れるんだ。海からだいぶ離れてはいるけどね、海水と淡水が混じり合った汽水域なんだよ」
 そういえば、海は見えぬのに、どことなく潮の香りがした。
「で、今日はわざわざ来てくれてありがとう。何か私に相談とかあったのかな?」
 由紀は微笑む。
「ご報告に来たんです。私、フランスで夢魔になっちゃいました。雪乃が居ない今、夢魔は福井さんと私だけですからね、数少ない親戚にご挨拶に来ました」
「それはそれは……。そうだよね。夢魔になったから、ガンなんか全快したわけだ。でも、自力で夢魔になったって……、すごいことだね」
「はい。けっこう、のたうち回りましたけどね」
「由紀ちゃん、強くなったね」
「そうでしょうか?」
「いや強くなったよ。いろんな険しい坂乗り越えて来たからね。なにか違う女の子になったみたいだ」
 それは母からよく言われた。不死身の体を持つとともに、精神も以前にも増してタフになっていた。