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亡き王女のためのパヴァーヌ  完結

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第十二章 妲己




 『どのくらいここに居るのだろうか? 一日位しか経ってないような気もすれば、何年も居るような気がする』
 由紀は冬期オリンピックのフィギュアスケート会場の前で倒れ、意識を失った。気がつくとこの湿地帯の野原にいた。空は限り無く高く、四方は地平線が見渡せるほど何もない。果てもなく広い大地のあちこちに小さな白い花が咲いていた。そして傍らには雪乃がいた。
「雪乃!」
と由紀は抱きつくが、雪乃は無言で微笑んでいるだけだ。
 口をきいてくれなくても、最初は雪乃が側にいるということだけで嬉しかった。雪乃はときおり思いついたように駆け出してゆく。由紀はそれを追いかける。そうやって子供のように鬼ごっこをし駆け回る。疲れは感じなかった。だが鬼ごっこは単調ですぐに飽きてしまう。飽きると雪乃と一緒に座って、地平を眺める。
 日が暮れることのない世界だった。時が過ぎていくのかどうかも疑わしかった。だから、ほんとうに遙かな年月をここで過ごしているようにも思えるし、ついさっきやって来たような気にもなる。
そうやって、雪乃とぼんやりと並んで座っていた。ときおりこれは本当に雪乃なのだろうかと疑ってしまう。姿形は雪乃なのだが、その表情や行動は五、六歳の子供のようだった。由紀はこれは幸せなのだろうかと自問自答する。雪乃そっくりの精巧なロボットと一緒にいるような気持ちになる。

 そんな苛立ちを感じていた時、突然周りの風景が崩壊していった。壁紙がはがれて行くように、広い平原の風景が所々剥がれて行く。風景はびりびり破れて、下の違う風景に変わってゆく。
 風景が完全に変わってしまったとき、隣には雪乃の姿はなかった。そこはあの媚の長と共に船遊びをした湖だった。春の湖の真ん中にいた。由紀は水の上に沈みもせずに立っていた。
 由紀は岸に向かって水の上を歩いて行く。水面を風に散った桃やれんぎょうの花びらが漂い、ピンクと黄の彩りを作っている。
 岸辺にはあの時と同じように黒檀のテーブルに媚の長が座っていた。
「師父!」
 由紀は叫んで駆け出す。媚の長が笑いながら咎めて、遠くまでよく通る声で言ってくれた。
「由紀よ。急がなくてもいい。ゆっくりと渡っておいで。走ると湖の表面が割れて水に落ちるかもしれないぞ。お前が泳げるのならいいのだが」
 由紀は、ひっ! と声を上げて立ち止まる。それから恐る恐る水の上を渡ってくる。岸に上がり、ほっと息を吐く。媚の長は機嫌良さそうに微笑む。
「由紀よ、すまん。今のは冗談だ」
 由紀はむっとして、媚の長を睨む。長は笑っている。由紀もつられて笑う。そして、ふと気付く。
『こういうのがないんだ。この世界にいる雪乃といても、この感覚がない……』 
 媚の長にはその顔の奧に、なにか煌めく実体が感じられる。その実体の感情、思惑、意志が顔や体の表面に表れて、様々な人間的な彩りとなっているように思える。その実体とは人格なのだ。この世界に居る雪乃には人格がなかった。由紀とともに居てくれたときの雪乃の中には、控えめながらも、強い意志に満ちた人格があった。いかに雪乃に姿形は似ていても、内部に雪乃の人格無ければ偽物なのだという、寂しい思いにとらわれた。 

「由紀よ、そこに突っ立って居らず、ここに座って茶を飲め。お前の好きな甘い茶葉を用意した。それに菓子もあるぞ」
 由紀は長の入れてくれた茶をすする。
「ああ、これだ。この爽やかな甘みですよね」
 長は微笑んでいる。
「由紀、お前、私に聞きたいことがあるだろう? 私もお前に話しておかねばならぬことがある。まず先にお前の疑問を尋ねるがよいぞ」
 媚の長はお見通しだった。由紀は疑問に思っていたことを口にする。
「ここは死後の世界なんですか?」
 長はうんざりとした顔をする。
「由紀、お前に以前にも言っただろう。死後の世界などないと。死ねば肉体も心も消滅する。魂というものなど残らない。いわんや、その魂の行く先の死後の世界も、おして知るべし。そんなもの無いのだよ。人間の作ったおとぎ話だ」
 由紀は訝しげな顔をする。
「じゃあ、私、死んでないんですか? でも、私競技場の入り口で倒れて、真っ暗になって……。気がつくと、死んだはずの雪乃が側にいたから、てっきりこれは死後の世界かと思ってました。長は無いなんて言ったけど、ほんとうは有るんだって思ってしまいました……」
 長は哀れむような顔をした。
「あれは雪乃ではない。お前の記憶の中にある雪乃の思い出だ。ここはお前の夢の中なのだ。お前は死んではいない。お前は今フランスの病院で昏睡状態でいる。時間はかかるが、お前の肉体は修復されつつある。二・三ヶ月で元に戻り目覚めるだろう。それからこの異国の病院を出て、自分の国に帰るがいい」
 由紀は媚の長の言葉を噛みしめる。
「じゃあ、じゃあ……。私、死んでない。前みたいに師父が私の体を治してくれているのですか?」
 長は優しく首を横に振る。
「いや違う。お前自身が自分の体を修復しているのだ。お前はあの日、完全な夢魔になった。お前の解放された夢魔の力が自動的に肉体を修復している。お前はもう夢魔なんだよ。だからこれ以後、病になることもないし、怪我をすることもない。お前は死なないのだよ。夢魔の寿命の二千年がやってくるまでは死ぬことはない」
 由紀は混乱してしまい言葉を失った。長が続ける。
「由紀、最初から私のほうから、順序立てて説明すればよかったようだな。今までお前に明かしていなかったことを全部伝えることにする」
 由紀は長の顔を見ながら肯く。

「由紀、今まで失礼した。名も明かさずにな。私の名を教えておこう。私の名は『だっき』だ」
 長はテーブル上の文箱から紙と筆を取りだし。達筆な字で『妲己』という漢字を書いた。
「これで『だっき』と読む。私のいた時代の中国では、女は名を先に苗字を後にして呼ばれた。だから名が『妲』で苗字が『己』だ」
 由紀は『妲己』と書かれた紙を受け取り、長の顔を見つめる。
「私がいたのは、お前達の歴史の年代で言うと、紀元前千年頃の中国だ。だから今から三千年前の話をお前に聞かすことになる」
 由紀の顔が驚嘆を表して、目が大きく見開かれる。三千年前とは由紀にとっては余りに壮大過ぎた。しかし、自分に起こった一連の事を思い起こすと、それくらいのバックボーンがあって当然かとも納得する。

「由紀よ。お前、歴史の成績はわりと良かったほうかな?」
 由紀は照れ笑いする。
「師父、私スケートばっかりしてたから、学校の成績はあまりよくありません。でも、世界選手権が終わり、新学期になると、今度こそちゃんと勉強しようって思って、四月から六月くらいまでは、しっかり予習、復習して学校に通うんです。でも、次のシーズンのグランプリファイナルやら日本選手権の練習やらで結局勉強出来ず落ちこぼれてしまうんです。でも、歴史だけじゃなくて、どんな科目でも 四月五月六月に習った内容なら自信があるんです」
  妲己は笑う。
「由紀、お前のその馬鹿正直な物言いは本当に愉快で、私は好きだ。なら、お前は知っているだろう。中国の歴史の一番最初に出てくるものだからだ。殷という国についてはどうだ?」