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亡き王女のためのパヴァーヌ  完結

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原田は泣きつかれるまま、由紀の言葉に従い、車椅子を押してリンクサイドを後にした。観客達も審判も大会運営者達も呆然として、しばらくは何も出来ずにいた。

 車椅子が暗い通路を行くと、途中に由紀の母と、由紀の先輩である前川が待っていた。由紀は母親を見つけると、小さな子が甘えるように訴える。
「お母さん。最後に外が見たい。最後に自分の足で歩きたい……」
 泣きじゃくる由紀のために、スケート靴を脱がし、持って来ていたスニーカを履かせてやる。白いダウンジャケットを三人がかりで着せてやる。
 すると由紀が一人ですっと立ち上がる。唖然としている三人を尻目にふらふらと三歩ほど進み、崩れ落ちる。倒れた由紀の体が、ぴくんぴくんと激しく痙攣を始める。 
 前川が叫ぶ。
「私、ドクター呼んできます!」
 駆け出そうとする前川を制止するように、由紀が叫んで呼び返す。
「待って下さい! もう手遅れですから……。どうか最後に、ゆっくり外の景色見ながら死なせてください」 
由紀を抱き起こそうとする原田と由紀の母の顔を前川が伺う。母がこくりと肯く。
「由紀のいうようにしてやりたいと思います。お医者さん達にも手の施しようがないんですから。この子の好きなようにさせてやりたいと思ってます」
 実際、由紀は医者達から、この状態で何故生きているのか医学上の奇跡。医学の常識を越えた奇怪な現象と言われていた。全身の内臓、組織にガンが転移しており、生きているのが不思議だと。医者達はそれでも、自らの力で立ち上がり、激しい競技を行える由紀に畏怖しながらも言い切るのだった。
「もう私達医師には何がどうなるのかわかりません。だから、患者さんが何時突然死してもおかしくありません」
 痙攣の治まった由紀は必死で通路の壁に手を這わせ立ち上がろうとする。原田と母親がそれを助ける。前川も駆け寄り手を貸す。

 三人に支えられ、由紀はおぼつかない足取りで、暗い通路を抜けて、競技場入り口の玄関ホールに出た。そこには由紀の演技を見ていた観客と思われる二人の女性が立っていた。一人は七十くらいの老婆で、もう一人は五十くらいの中年の婦人だった。由紀達が現れると、二人は側によってきて由紀の前にひざまずいて十字を切った。老婆が口の中でぶつぶつとキリスト教のマリア祝詞を唱える。由紀は息が上がり、目が霞んでいたので、無意識にその婦人のほう片手を挙げた。と、中年の婦人が両手で由紀の手を取り、手の甲に口づけをした。
 由紀も他の三人もこの人達が何故こんなことをしているのか見当も付かなかった。二人のフランス女性達は由紀の先ほどの演技の際に見た幻覚から、由紀をキリスト教の聖人かなにかのように勘違いしているようだった。

 ひざまずき祈る二人を置いて、コーチと母と前川は由紀を支えながら外に出た。外の気温は氷点下、夜の八時過ぎ。競技場の玄関の照明と街の建物の明かりで、凍った道の上をスタッドレスタイヤで走って行く車。歩道を行く通行人が昼間のように見て取れた。
 由紀は競技場から道路を挟んで立ち並ぶ建物群を眺めている。その時、ひゅーっと、一陣の風が起こり、白い雪を舞い上げて吹いてきた。「風花」と美しい言葉で言われるごく小さな吹雪だった。
「雪乃が来る! 雪乃が私を迎えに来る。私、行かないと……」
 由紀が譫言のように呟き出す。と、突然、ズーン! 地面が揺れ、由紀の体がぱっと光に覆われる。しかし、直に光は何事も無かったように消え失せた。原田も由紀の母も前川もフリーの演技中に見た、不思議な光景が記憶にあり、そんな光や振動にも動揺しなかった。由紀が衰弱しきった顔を歪め、すすり泣く。
「出来なかった。私には無理だった。雪乃のところには行けない。私は地面の上で死んで行くんだ……。雪乃……、ごめんね……」
 
「内藤さーん!」
 日本スケート連盟の随行員の一人が叫びながら、駈けてくる。
 由紀達が去った場内で、審判団が由紀の採点についてもめにもめたのだ。曲の中に歌が入っていて失格としたいのだが、録画されたビデオ映像には一切、声は入っておらず普通に器楽曲だった。あの振動、激しい音、甲冑の兵士、軍馬など全く映って居らず、録画で見る限り、由紀の五つの四回転ジャンプは完璧だった。
 五つのジャンプとステップ、スパイラル、スピンを純粋に技術面で採点してゆくと、由紀の点数はフリーの一位だった。ショートと合わせても総合一位。由紀を一位にすることに、割り切れぬものを感じてはいたが、あまりに不思議なことが続いていて、もうこれで終わりにしたいという思いが最終的に審判達を決断させた。長い協議の末、由紀の一位が会場の電光掲示板に表示されたのだ。

 近寄ってきた連盟の随行員の女性が上ずった声で原田に告げる。
「内藤さんが一位です。金メダルです!」
 原田も由紀の母も前川もすっかり、そんなこと忘れていたように一瞬ぽかんとした。母親が由紀の耳元で告げてやる。
「由紀! あんたが金メダルだよ。オリンピックで金メダル取ったんだよ!」
 しかし由紀には母の声が殆ど聞こえていない。
「お母さん、どうしたの? 停電なの? さっきまで電気が明々と点いてたのに、真っ暗だ……。お母さん、何? 聞こえない。お母さんの言ってることがわからない……」
 みんな、はつ! とする。競技場の前の広場は照明のため、昼間のように明るい。
「暗い……。みんな声が遠くに聞こえる……」
 由紀は母と原田の手の中で崩れ落ちていった。原田が随行員に叫ぶ。
「お医者さん呼んできて!」
 金メダルの選手にインタビューしようと、テレビ局の者達が駆けつけてきて原田と母の手の中の由紀をカメラで撮る。

 由紀の中で由紀を延命させていた全ての呪が破れていた。ガンが転移していたあらゆる内蔵の組織は由紀が呪によって、結界を張り閉じこめていた。しかしその結界が全部はじけるように消え失せた。ガンに侵された内蔵組織からは当然のように血が吹き出す。
 由紀の口からどくどくと血が流れ出す。鼻、目、耳からも次々と流れ始める。由紀の白いダウンジャケットがみるみる真っ赤になってゆく。
 テレビ局の人間は驚きながらも、その光景をカメラで撮ってゆく。
 マイクを片手にこの予想外の出来事を実況するレポータに向かって、前川がたまりかねて拳を振り上げて叫んだ。
「アプレ・ユヌ・アンビュランス、シルヴプレ!(救急車呼んでください!)」