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亡き王女のためのパヴァーヌ  完結

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 通路の奧、観客の目につかない所で、最終グループ三番目の選手の演技が終わるのを待ち、昨日のように、観客の奇異なものを見る冷たい視線の中をリンクサイドに入ってゆく。演技を終わった選手の採点に忙しいはずの審判達も、思わず手を止めて由紀のほうを見つめる。今日滑ろうとしていることが信じられないようだった。
 最終グループ四番目の選手の演技が終わり、氷の上から上がってくる。原田が由紀の肩をぽんぽんと叩く。固く目を閉じていた目が開く。由紀は麻薬を使わずに全身を襲う激しい痛みに耐えるため、精神を統一して沈痛の呪言を唱えていたのだ。由紀は腹腔付近に集め、ため込んでいた呪を全身の神経に拡散させる。スケーティング中の痛みを遮断するための準備だ。
「先生、今日まで……、ありがとう……」
 か細い由紀の声が原田に向けられる。原田は何か言い返そうとするのだが、この由紀の遺言のような物言いに胸が詰まり返答できず、無言のまま由紀のスケート靴のブレードカバーを外してやる。
 由紀はすっく! と立ち上がる。昨日のように首はうなだれていない。
『もう、出し惜しみする必要はない。これで最後。全て使い切る……』
 もう持ち越す必要のない余剰の命を全て出し尽くそうとしている。
 
 観客達が気味悪く思うあの滑走でリンク中央に進む。棒立ちのまま何の身体の動きも無く、すーっと滑り出す。まるでリンクに傾斜があって、自然に落差で進んでいるかのようだった。
 曲が始まる。日本選手権のときと同じ、オルフの「カルミナブラーナ〜おお運命の女神よ」。最初の荘厳な出だしから、すぐ曲のスピードが上がって行く。由紀は次々と四回転ジャンプを飛び始める。人々は驚嘆する。昨日の優雅で物静かなジャンプと比べ、今日は余りに激し過ぎたからだ。風のように舞っていた。速いスピードで空中で回転する様は竜巻を連想させた。由紀の目は「かっ!」と見開かれ、口元には笑みすら浮かべている。
 「次々と敵の首を刈ってゆく残酷無比の東洋の邪教の女神」
 それが、今日の観客達の由紀に対する印象だった。

 「カルミナブラーナ〜おお運命の女神よ」は二分くらいの曲のため、四分のフリープログラムとしては、後半にも同じ曲を繰り返すこととなる。由紀がプログラムコンテンツシートで申告していた五つの四回転ジャンプの最後、アクセルジャンプに次ぐ高難易度のルッツを飛び終わり、後半部へと入ってゆく。
 まず原田が「えっ!」と驚く。次に審判団が眉に皺を寄せる。観客も唖然とする。後半部からは歌が入っていたのだ。元々、カルミナブラーナは歌曲のため、歌があるのが当然なのだが、フィギュアスケートという競技ではエキジビションの演技を除いて、使用する音楽に歌を入れることは出来ない。歌による強烈なメッセージ性を禁止しているからだ。
 しかし男女混声の合唱により、しっかりと歌が入っていた。さらに奇妙なことだが、観客である各国の人々にその歌が自国語で聞こえるのだ。ドイツ人にはドイツ語でフランス人にはフランス語で聞こえる。
 日本人である原田には日本語で、
「おお運命よ 月のよう 変わりゆく 満ちゆきて 欠けてゆく……」
というふうに聞こえた。
 決して、各国語の歌が多重で聞こえているのではなく、一カ国の言語で歌われているのに、人々はそれを自国語として聞き、歌の内容が理解出来ていた。
 そして、この歌は世界各国にテレビ中継されている放送では流れていないのだ。この会場にいる者のみにその歌声が聞こえていた。    

 観客はさらに驚愕する。突如リンクに全身、鉄の甲冑にを纏った兵士が一人、軍馬に跨り疾走し始めた。しだいに兵士の数が増えて行き、兵馬が激突する。馬の嘶き、鎧のぶつかり合う金属音、剣や槍を打ち合う音。倒れる馬、傷を負い崩れ落ちる兵士。いつのまにか、リンクは壮絶な戦場と化していた。
 その上空を由紀が舞飛ぶ。戦う兵士達の上空に透明な目には見えない氷の天井があるかのように、由紀はその上で滑べり続ける。まるで北欧神話のオーディーン神より遣わされ、戦場に倒れた戦士の魂を拾い上げようと、虎視眈々と上空を舞い続ける戦場の乙女ワルキューレのように。しかし、テレビ中継ではそんな映像は一切映っていない。ただ由紀がリンク上でスパイラルをステップを続けて行く姿だけだ。兵と軍馬は会場に居る者にしか見えていなかった。
 兵も軍馬も次々と倒れてゆく、最後に一人が落馬した刹那、戦場の映像は突然消え去る。何もなかったかのように、由紀がリンクを滑走して行く姿しかない。人々の心はパニックになっている。
 と、フランス人の観客が呟く。
「ピュセル。ラ・ピュセル……・」
 観客席にその言葉が広がって行く。
 フランス語で乙女を意味する「ラ・ピュセル」とはフランス百年戦争の国民的英雄、神の啓示を受け、戦場で先頭に立って進んだオルレアンの少女ジャンヌ・ダルクをも指す。 
白い由紀のコスチュームはフランス人にはジャンヌ・ダルクを連想させた。飾りで滑走時にたなびくように縫いつけてあるスカーフ状の白い布きれは、ジャンヌが手に持っていた白く長い三角旗のように感じられた。中にはその布きれに中にジャンヌの旗のようにフランス王家の紋章、百合の花が描かれているように錯覚する者もいた。

由紀が最後のスピンに入る。竜巻のようにくるくると速いスピードで回る。次第に速度は増して行き、体が輝き始める。回転が止まり由紀が腕を頭上に掲げフィニッシュのポーズをする。止まった由紀の体がさらに眩く光った。と、突然ドーン! という大きな音が響き、会場の建物が激しく揺れた。由紀の体から光の柱が上空に、競技場のドームの高い天井付近まで伸びた。
 人々は驚愕し身を屈める。しかし、音も光も直ぐに消え、リンク中央にフィニッシュのポーズで立ち尽くす由紀の姿だけがあった。しばらくそのままずっと立ち尽くしていた由紀はがくっと首を垂れて、すーっと、リンクサイドに戻ってくる。何故か今日は痛みがなかった。痛みを押さえるために、体のあちこち呪を込めるのだが、演技に集中して、それが全部外れてしまう。すると、押さえていた激痛が全身を駆けめぐり、耐えきれず気を失ってしまう。昨日はそうだったのだが、今日は沈痛の呪が全て外れているにも関わらず、痛みが無かった。
 にも関わらず、由紀の心はしおれきっており、戻って来るとすすり泣き始めた。
「駄目だった。失敗した。出来なかったよ……。私には無理だったんだ……」
 原田がそんな由紀を無理矢理、車椅子に座らせる。失敗だという意味が、夢魔の死としての、光の粒になっての消滅が出来なかったことだとは夢にも思わない原田は、あやすように由紀に語りかける。
「失敗じゃないよ! 大成功だよ! あんた、とんでも無いことをやったよ。五種類の四回転ジャンプを飛んだよ。回転は足りてたし、着氷も完璧だったよ。男子でもまだやってないことだよ……」
 原田は泣きじゃくる由紀の様子に、先ほど見た幻覚をすっかり心の隅に追いやってしまっていた。
 由紀はむずがる子供のように原田に訴えた。
「先生。もうここに居たくない……。お願いだから、ここから連れ出して下さい!」