小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

亡き王女のためのパヴァーヌ  完結

INDEX|26ページ/36ページ|

次のページ前のページ
 

第十一章 冬期オリンピック

            

 全日本選手権から三ヶ月後、フランス東部の国境の街シャモニー。フィギュアスケートは冬期オリンピックの最後の期間に行われる種目だった。さらに女子シングルはフィギュア種目の最後に行われた。
 
一日目のショートプログラムの滑走順は27番目だった。最終滑走グループ五人中の三番目。最終グループの四人がリンクに出て、ウオームアップのため6分間の練習を行っていたが、その中に由紀の姿は無かった。
最終グループ2番目の選手が演技を開始したとき、観客らは異様なものを見ることになった。
一人の女が車椅子を押して通路をやってくる。そこには、真っ黒なコスチュームを纏い、スケート靴を履いた女が座っている。スケート靴の女は固く目を閉じたまま微動だにしない。それが由紀だった。
 ガンは全ての内蔵、全身に転移していた。由紀がまだ生きていることが、医学的には理解不能と、医者は言った。やせ細った手足、頬は落ちくぼみ、目の周りの隈、青ざめた肌。由紀は死人のように見え、人々は不快感にとらわれた。
 三日前から由紀は現地に入っていた。しかし、予約していたホテルからは宿泊を断られた。原田が押す車椅子上の由紀を見たとき、ホテルの支配人は、病院を紹介するから、そちらに行ってほしいと訴えた。で、由紀は到着早々、競技場に一番近い総合病院の個室に入ることとなった。
フィギュアスケートの会場では、車椅子に座らされている女がまさか選手であるとは誰も思わなかった。きっと競技の観覧を望む病人を特別に、リンクに一番近いところに連れてきたのだと思った。

 最終滑走グループ二番目の選手が演技を終え、リンクから上がり、コーチと歓声を上げ抱き合っている。と、原田は車椅子の由紀の肩をポンポンと二度叩く。すると由紀の目がうっすらと開いた。まるで半分眠っているかのような細い目だ。原田は車椅子の前に回り、ひざまずいてスケート靴のブレードカバーを外してやる。原田は無言で由紀を見つめる。由紀はこくっ! と肯く。人々は信じられないものを見た。あの車椅子の瀕死の病人が立ち上がり、リンクに降り立ったのだ。観客も審判団も大会運営者達も、息を飲む。余りにも異様な光景に頭が付いて行かない。
 由紀は直立しているが、首だけはがくっと前に垂れて、腕は力なくだらんと垂らしている。目は薄開きの細い目のままだった。次の瞬間、人々はさらに異様なものを見ることとなった。
 棒立ちのまま由紀の体が、いきなり、すーっと滑り出したのだ。体は少しも動かしていない。あり得ないことだった。スケートが滑り出すための力を生じさせる、どんな動きも行っていないのだ。まるでスケート靴自体に推進力があるように靴が滑り出し、体はその上に載っているだけのように見えた。どういう高度な技術を使えばこんな滑り方が出来るのかと人々は訝しんだ。
 リンク中央に棒立ち状態の由紀。コスチュームは日本選手権の時と同じの黒。喪服のような黒と、青ざめた肌。やせ細った顔、手足。人々には由紀が死神のように見えた。
 音楽が始まる。前回と同じ、ラベルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。音楽が鳴り始めた刹那、垂れていた由紀の頭が上がる。目はしっかりと見開かれている。血の気のない象牙のような肌、人々は死神の舞を見るような不気味さを感じた。いきなり、由紀は四回転のトゥループを飛ぶ。長い滞空時間で優雅にふぁわっと舞い上がり、音も立てずに静かにに着氷する。そう、不思議なことに氷の上に降り立った時のエッジの音が聞こえなかったのだ。
 人々は最初に現れたときに感じた不気味さを忘れつつあった。その物静かな音楽に似合う、あまりに優雅でたおやか演技。由紀は氷上に、はかなさと美を紡いでいた。
「アン・パピヨーン・ノアール(黒い蝶)」
と誰かが呟く。人々は同じ言葉を口々に発する。由紀の演技はさながなら、黒い大きな揚羽蝶がひらひらと舞うように見えた。空高く舞い上がり、あるいは低く地上すれすれに漂っているようだった。
 由紀はさらに、四回転サルコーを飛ぶ。一つの演技に四回転を二度飛ぶのは男子でもなかなか出来ない。それを由紀があまりに自然にやってのけたので、人々はそれが、高難度な技であることを忘れてしまった。四回転ジャンプはスケーティング、ステップ、スパイラルの滑らかなつながりの中にとけ込んでしまっていた。
 由紀がフィニッシュする。腕は余情の形を漂わせ、頭上に突き上げられる。人々はほーっ! とため息を吐き、拍手の嵐が起こる。だが、その拍手がぴたっと止まる。滑り終わった由紀の頭をがくっと垂れ、手をだらんと下げて棒立ちのままなんの予備動作も無く、すーっと滑り始める。人々はまた、最初に感じた不気味さにとらわれる。
 由紀はすーっと原田のほうに戻ってきて、リンクの氷と通路との段差に当たり、ぐらっと倒れる。原田がその体を支える。大会運営の係員達が二人駆けつけて手伝い、由紀は再び、車椅子に載せられる。目は固く閉じている。由紀と原田はキスクラのほうには行かず、原田の押す車椅子で退場して行った。観客も審判もこの一連の出来事の不気味さ奇妙さに圧倒され、声も出ない。

 由紀はそのまま、病院に戻った。ショートプログラムの順位は結局三位となっていた。しかし技術点だけは他のどの選手にも勝っていた。

 二日目、フリープログラム。審判達は由紀が棄権すると思いこんでいた。提出されている由紀のフリーのプログラムコンテンツシートが余りに異常過ぎるからだ。なんと、アクセルジャンプを除いた残りの五つのジャンプで四回転を飛ぶと記してあった。
「あり得ない」
と審判達は思った。男子でさえこの快挙を達成していない。しかし、昨日この選手は一試合に四回転ジャンプを二度成功させていた。とはいえ、これはあまりに無謀、ブラフとしか思えなかった。
 
 由紀は最終滑走、30番目となっていた。原田と由紀が病院に戻ってしまったため、スケート連盟の随行員が代わりにひいた抽選の結果だった。
 そして今日も、女子フィギュアシングルでは奇妙な出来事が起こっていた。選手達が控え室から出て、通路にたむろして準備運動を行っているのだ。選手達は控え室に入るのを嫌がった。控え室の一番奥に、車椅子が置かている。そこには目を固く閉じた由紀が真っ白なコスチュームを着て座っている。微動だにしない。息をしていることすら疑いたくなる。女子の他の選手達は由紀が死んでいるように見えるが気味が悪かったのだ。

 女子選手達の動揺に関わらず、フリーの競技は滞り無く進んで行く。そして最終グループのの三番目の選手が滑り始めた。由紀は最終滑走グループの五番目だ。原田が由紀の肩を叩く。由紀の目が薄く開く。
「由紀ちゃん、時間だ。これで最後だよ。ほんとうにこれで最後。よくがんばってきたよね。さぁ、行くよ」
 原田が車椅子を押そうとする。原田に背を向けたまま、由紀が弱り切った殆ど聞き取れないような、か細い声を発する。
「先生、ありがとう……。今までほんとうに、ありがとうございます……」
 原田は由紀の肩に優しく手をかける。何か気の利いたことを言ってやりたいのだが、由紀の痛々しい姿の前にして、何も思い浮かんで来ない。
「いいのよ……」