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亡き王女のためのパヴァーヌ  完結

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第十章 全日本選手権

   

 全日本フィギュアスケート選手権は東京代々木体育館で行われた。この年の日本選手権はオリンピック選考会も兼ねており、既にグランプリファイナルの女子フィギュア優勝者である高橋麻美がオリンピック出場を決めていた。
 残っている出場枠はあと二人、この日本選手権の一位と二位の選手が選ばれる。

女子シングルの一日目、ショートプログラムの滑走順は、去年の日本選手権四位の由紀は、最終グループの二番目だった。誰もが由紀に期待はしていなかった。病み上がりのやせ細った体の由紀を、人々は冷ややかに、あるいは哀れみを持って迎えた。

「由紀ちゃん。行っといで。点数なんて考えなくていいよ。楽しんで滑っておいで」
 原田コーチに優しく肩を押されて、氷の上に出た。コスチュームは雪乃が残していってくれた試作品の中から、真っ黒なものを着ていた。黒いレースの飾りが付いていて、さながら喪服を思わせた。
 曲が始まる。ラベルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。このもの静かな曲を通して、去ってしまった者への途切れることのない思慕が流れて行く。
 穏やかな曲を使いながらも、切れの良いジャンプする由紀の姿に、観客達は次第に魅了されていく。
体が軽い。軽いというより、飛ぶ瞬間だけ自分の周りの引力が小さくなるような気がする。媚の長が体の筋肉と神経を絶妙に仕上げていてくれたのと、自分の内部に芽生え始めた不可思議な超能力ともいう力を使っていた。
 練習のとき、あまりにジャンプがやすやすと飛べるので、由紀はコーチがいないすきに、こっそりクァド・アクセルに挑戦してみた。四回転半ジャンプ。まだ男子でさえ誰も成功していないジャンプを由紀は軽々と飛んだ。もし、飛ぼうと思えば、五回転、五回転半すら楽々と飛べるという気がする。しかし、由紀は試みようとは思わなかった。そんなジャンプは必要ないのだ。
 現在、四回転を公式戦で女子で飛んだのは由紀一人。その上、男子ですら四回転を成功させているのは、一番難易度の低いトウループジャンプで飛んでいるものが殆どだ。二番目の難易度のサルコウジャンプで飛んだのは、男子で二人と由紀のみだった。
 ジャンプはその難易度からさらに、ループ、フリップ、ルッツ、アクセルと続く。その難易度最高のアクセルでクァド・アクセルなど飛んでしまったら、もうとんでもない騒ぎになってしまう。
 由紀はこのショートプログラムでは四回転は入れていなかった。しかし由紀がふわっと飛び上がり、まるで空中で静止しているかのような長い滞空時間で三回転を決めたとき、観客席がどよめいた。そして流れるようなスパイラル、ステップへと繋ぐ。その静かな優雅な動きに観客は引き込まれていった。
 ジャンプを一つ失敗してしまった。飛んだ瞬間、背中に激痛が走ったのだ。着氷で転んでしまう。
 原田が
「あっ!」と声を上げる。 
 しかし、由紀はその後は完璧に滑りきって演技を終えた

 キスクラで原田と点数が出るのを待つ。転倒はあったものの、高得点が予想された。
「由紀ちゃん。よかったよ。とっても。でも、痛いの?」
 由紀は笑って首を横に振ってみせる。
「大丈夫です。なんともありませんから……」
 原田は由紀に痛みないわけがないのを知っている。末期のガン患者が、痛み止めの麻薬なしでいるのだ。そんな苦痛にまで耐えてまでも、最後のスケートに挑もうとするとは、と原田は涙ぐむ。
「先生。どうしたんですか?」
 原田はハンカチで瞼をぬぐう。
「いや、あんたが完全復調してくれて、ほんと嬉しくてね」
 点数と順位がでる。現時点で一位だ。しかし、これからは世界レベルのそうそうたるスケータが出てくるので、順位はどうなるかはわからなかった。

 結局、終わってみれば由紀はショートプログラム二位につけた。
「由紀ちゃん。しゃかりきになって滑ることはないよ。リラックスして、あんたの今の滑りを楽しんでいたら、順位は向こうからやってくるよ」
 別れ際に言ってくれた原田の言葉を思い出して、小さく呟いた。
「順位なんか、ほんとは、どうでもいいんだけどな……・」
 由紀は競技場から乗った帰りのタクシーの中に居た。昼間から降り始めていた師走の雨は、夜になってミゾレとなった。暗い窓の外、ヘッドライトに照らされる度に、視界に白い雪片が舞い飛ぶ。
 由紀は福井老人から吸い取った記憶の中の、雪乃の最後の情景を思い浮かべる。無数の蛍のような光になって空に広がり消えていったのだ。
 媚の長は、人が死ねば魂などというものは残らず消え失せると言った。夢魔もまた然り。
「私は雪乃のお墓の側で死にたいだけ……。病院では死にたくない」
 由紀が小学生だった頃、母はある映画のDVDを繰り返し見ていた。由紀もそれを一緒に何度も見た。外国の映画だった。好き合っていたが、結婚出来ない男と女。先に死んだ男のほうが、遺言して二人が初めて出会った河原にその骨灰を撒いてもらう。火葬で骨が原型のまま残るのは火を調節しているからだ。そのまま長時間焼けば、骨のないただの灰になってしまう。男は灰だけになって河原に散らばっていった。
 年を経て、女も亡くなるときに子供達に散骨を遺言する。同じ河原に、女の灰も撒かれてゆく。この場面で母は予め横に置いていたティッシュで涙を拭う。隣に居る小学生の由紀もしくしく泣く。母がティッシュを多めに取り、由紀に渡してくれる。母はいつもあきれていた。
「あんた、おませな子やねぇ」

 魂が残らないとしたら、あの散骨はどれほどの意味があったのだろうか。骨の形もないただの灰を撒いたら、何十年後には雨風でとうに無くなってしまっているだろう。でも、同じ墓に入りたいという気持ち。好きな人の側に葬られたいという気持ちは満たされるのだろうと由紀は思う。たとえ、肉体も精神も失せてしまったとしてもだ。
 雪乃の亡骸も墓もこの世界のどこにもない。雪乃の死の情景を思い浮かべるとき、白く小さい無数の光が空に散っていく様は、雪乃は空に散骨されたと思ってしまう。雪乃の墓があの空のかなたなら、自分も夢魔の死を迎え、あの空の彼方に拡散したいと思うのだった。

 女子シングル二日目、フリープログラムの滑走順位は、前日の抽選で最終滑走グループの五番目だった。由紀は半信半疑だった。この日本選手権の緊張と高揚感の中、燃え上がり燃え尽き、夢魔の死を迎えることが出来るのだろうかと迷っていた。昨日のショートプログラムでは何も起こらなかった。しかし、何か内部で滑りながら、手応えなようなものは感じていた。高揚感、多幸感。その果てに夢魔の死があるのではないのかと思い初めていた。
 愛する者のために死ぬという高揚感の果てに雪乃は去って行った。今、自分は雪乃の側に行けるのではという思いで幸せになれる。たぶん、鍵はこの多幸感ではないかと考えていた。

「由紀ちゃん。よく頑張ってきたね。さぁ、これが最後だ。思いきり楽しんどいで」
 原田の言葉を後に、由紀はリンク中央へと出る。コスチュームは雪乃の残していったもの中から真っ白なものを着た。飾りで白く細い短いスカーフのようなものが滑走時になびくようにと縫いつけてある。曲は「カルミナブラーナ〜おお運命の女神よ」。歌は入っていない。