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亡き王女のためのパヴァーヌ  完結

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第九章 媚の舞



「師父! 私は嫌です! そんな、人を殺すような舞を覚えたくありません」
 長は困ったような顔をする。
「由紀、私はこれをお前に教えて、誰か人を殺せなどと言うつもりはない。ただの伝統芸能のようなものと思ってくれ。舞踊の中には真剣を持って舞うものもあろう。その舞が人殺しの舞ではなかろう。全てのことには、光の部分と闇の部分がある。闇についても知ってくれ。それが、お前のやっているフィギュアスケートというものの芸の幅を広げるものだと思って、教えたいのだ」
 由紀は涙をぽろぽろ流す。
「師父。私、恐いんです。舞は舞として習います。だから、もう、そんな恐い話はやめてください。師父のそんな傷も見せないでください。私、恐くてたまりません」
 長は深いため息を吐く。
「由紀。すまなかった。もう、媚の話はしないし、傷も見せない。後、二ヶ月の辛抱だ。最初に言ったように、お前の体の修復が終わるまで、気晴らしに舞を習ってくれ」
 由紀は肯く。長が由紀の機嫌を取るように、言い出した。
「由紀。今日は、稽古をやめて、湖に船を浮かべて遊ぼう」

 由紀が初めて長に会った時の、湖の畔に二人で行った。あのときは、湖面に氷が張っていたのに、夢の中の季節は春となり、岸辺には柳の緑が映え、湖面には散った桃の花弁が彩りを添えていた。二人が小舟に乗ると、こぎ手もいないのに、湖面を滑るように進み始めた。長が竹行李の中から、菓子を取り出し、茶を勧めてくれた。二人は楽しそうに笑い、美しい景色を楽しんだ。
 長はそうやって、稽古の合間には、時々は湖や野山に遊びに連れて行ってくれたし、甘い菓子を作ってくれたり、料理を作ってくれたりした。

また一月が、瞬く間に過ぎた。
「由紀、お前の頭の損傷は修復した。あとは、麻痺した四肢の筋肉の調整、神経の調整に入る。これからは、お前のスケートの練習に入るがいい」
 また、湖岸に連れて行かれると、今度は湖一面に氷が張っていた。
「自由に滑ってみろ。それでお前の筋肉と神経を調整する」
 レギンスの練習着をまとい、由紀は言われるままに、ジャンプ、スパイラル、スピン、ステップを行ってみた。最初はうまく滑ることが出来なかったが、徐々に、調子が上がっていった。

ある日、長が岸辺の黒檀のテーブルの上に、四角い香炉のようなものを置いた。由紀がそれについて尋ねると、長は照れくさそうに言った。
「お前達が使っている、CDプレーヤーとか、DVDプレーヤーというものを、再現しようとしたのだが、こんな変なものになってしまった。まぁ、音はちゃんと出るが」
 長がその香炉状のものに手をかざすと、音楽が鳴り始めた。それは、由紀がショートプログラムに使おうと思っていた、ラベルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」だった。ちゃんと、由紀の用意していたジャズのピアノトリオの演奏だった。
「由紀。お前の振り付けで、氷の上で舞ってみよ。私の教えた舞にこだわらず、心のままでいいぞ」
 「亡き王女のためのパヴァーヌ」は、フランスの作曲家モーリス・ラヴェルが1899年に作曲したピアノ曲で、後に彼自身が管弦楽曲に編曲している。
 パヴァーヌとは十六世紀から十七世にはやった、スペインを起源とするゆるやかな宮廷舞曲だ。ラベル自身が、フランス語で、「亡き王女」(アンファント・デフュント)と韻を踏む語呂の良さから名付けたもので、題名自体に深い意味はないという。ルーブル美術館に展示されていた、ベラスケスの描いた十七世紀のスペイン王室の若い王女の肖像画にラベルがインスピレーションを得たという説もある。スペイン王室では通夜のとき、棺の周りでパヴァーヌを踊ったとも伝えられている。だが、「王女の葬送の曲」ではなく、「昔、小さな王女が踊ったようなパヴァーヌ」とラベル自身が語っている。
 しかし、由紀はこの曲を聴くと、大事な人を失った者が、悲しみから回復してゆく心の過程を感じる。閉じこもっていた暗い部屋から久しぶりに出て、明るい町並みを行く。空は晴れて青く、木々の下、裏葉は光を透し輝く。道行く人は善意に満ち、穏やかな昼下がり。取り立てた事も起こらない、日常のささやか幸せ。その心の底を、伏流のように、戻らない人への思慕が流れ続ける。 

 由紀は七割方、教えられた鎮魂の舞の、手振り、仕草、目配りを演じていた。この曲にこの舞はしっくりと合った。残りの三割は、由紀のオリジナルだった。
「由紀! すばらしい舞だ。いい! 実に、いい」
 長が拍手してくれる。この曲のために、舞を教えてくれていたのだと気付く。自分で振り付けをすると言ったものの、何処から手をつけてよいかわからず、迷っていたのだ。 
 そうやって、「亡き王女のためのパヴァーヌ」の振り付けを完成させていった。
 
 数日後、今度は、オルフの「カルミナ・ブラーナ」の「おお、運命の女神よ」を流してくれて、ショートの振り付け同様、由紀の思うままに舞えと言ってくれた。
 ドイツの作曲家、カール・オルフが1936年に完成させた、舞台形式によるカンタータ(器楽伴奏付の声楽作品)であり、本来の上演では舞踊を伴う。
 カルミナ・ブラーナは十九世紀にドイツの修道院で発見された詩歌集のことで、オルフはこの中から二十四篇を選び、曲をつけた。「おお、運命の女神よ」は勇壮、壮大な最初の曲であり、最後にもう一度演奏される。二分半の曲なので、フリープログラムでは二度繰り返すことにして、一度目を合唱無し、二度目に合唱を入れようと思っていた。しかし、由紀の転倒で、母は歌詞の無い合唱の依頼をするどころでなく、付きっきりだろうから、日本選手権のフリーは全部合唱なしでゆくことにした。
 やはり、二番目に教えられた舞がこの曲の主要な振り付けになってしまった。長はこの二つの曲に合った舞を教えてくれていたのだと知る。
 前半は、味方の勇気を鼓舞する舞を、後半は敵と向かい合い、呪詛を投げかける舞を取り入れた。

 そうやって、夢の中での数日がまた過ぎた。氷の上で滑っていると、ある日長が夢の終わりを告げた。
「由紀。二つの振り付けも出来たようだな。私のほうもお前の体の修復は終わった。目覚める時だな」
 しかし、長は由紀の前途の苦難を告げた。
「ガンは治していない。私では治せないのだよ。だから、死は騎兵のように、早い足取りでお前を追いかけてくるだろう。ジャンプ力は回復させておいたが、体の持久力は低下したままだ。苦しい戦いになるだろう。ガンの痛みもお前を苦しめるだろう。だから、痛みを抑える呪を教えておこう。血を止める呪もあるが、まぁ、それは必要ないだろう」
 由紀はさらに幾つかの痛み止めや気付けの呪を習った。
「あっ! 雨」
 由紀は夢の中で、雨の一粒を顔に受け、空を見上げる。
「由紀、それはお前の母親の涙だ。早く、戻ってやるがいい」
 
 由紀の母は、意識のない娘の傍らで、毛糸の肩掛けを編んでいた。八割かた編み終えたものを、由紀にかけられた毛布の胸の辺りにかける。立ち上がり、由紀を見下ろす。
「由紀、ほら、いい色でしょう。あなたに似合ってるよ……」