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亡き王女のためのパヴァーヌ  完結

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 末期のガンの最後は麻薬で痛みをとりながら、夢見心地で意識朦朧として死を迎える。

 それから、由紀は再び、原田コーチと共に、トレーニングに入った。入院生活のため、すっかり体がなまっていたのと、ガンによる体力の低下もあり、ジャンプがなかなか、うまくは飛べなかった。その上、さらなる不運が由紀を襲った。ジャンプの着氷に失敗し、大転倒してしまった。転倒した体は氷の上を滑ってゆき、フェンスに激しく激突した。由紀は救急車ですぐ病院に運ばれる。上位頸椎を損傷していた。四肢の筋肉が麻痺し、横隔膜も麻痺し、自発呼吸すら出来ず、人工呼吸器が取り付けられた。その上、意識が戻らず、植物人間状態になってしまった。いわば、もう死んだも同然だった。
 さまざまな装置が取り付けられた由紀の体の横で、その母が呆然と座り続けていた。

 深い霧が辺りを覆っていた。由紀は体を起こす。転倒して、ちょっと気絶していたような記憶がある。下は冷たい氷の上だ。原田コーチを捜すが、霧が深く回りが見えない。
「先生! 原田先生!」
 返答はない。由紀は立ち上がる。レギンスという撥水性、保温性を持ち、スカートの付いていない黒の練習着を着ていた。周りを詳細に見ると、霧がかかってはいるが、一カ所だけ他より明るい方向があった。由紀はそこを目がけて、ゆっくりと、用心深く滑っていく。もう、フェンスはごめんだという気持ちだった。
 進んでいくにつれ、霧は次第に晴れていった。そして、ある地点までくると、突然、霧はぱっと消えた。そこは広い凍り付いた湖の上だった。岸が直ぐ近くにあった。その岸辺に黒檀の重厚なテーブルが置かれ、こちらを向いて、一人の女が腰掛けていた。由紀はそちらへ近づいてく。女は長い髪の毛を頭の上に結い上げていたが、日本の髪型ではなかった。衣服も前あわせで、どこか日本の着物にも似ているが、もっとゆったりと、ざっくりとした着こなしだった。二十代後半くらいの美しい女だった。世界史の教科書に載っていた、古代の中国の女性を思い起こした。
 女が声をかけてくれた。
「体が冷えてしまったろう。ここに来て、熱い茶を飲むがいい」 
 由紀は促されるままに、岸に上がり、女の向かい側の椅子に座った。女は微笑みながら、暖かい茶をいれてくれた。近くで見ると、絶世の美人といってもいいくらいと、由紀は思った。その茶は爽やかで、上品な甘さがあった。
「おいしい! すごく、おいしいです。ありがとうございます」
 由紀は辺りを見回す。女がそれを察して話しかける。
「ここは何処で、この私が何者か知りたいんだろう?」
 由紀は肯く。
「ここは、お前の夢の中だよ。由紀。お前は今、病院で眠っているんだよ」
 由紀はその意味がわからない。
「お前は、練習のとき、氷の上で転んで壁に体をぶつけて、首の骨を折ってしまった。脊髄神経損傷。呼吸も出来ず、人工呼吸器をつけられて、意識を失ったままだ。医者達は治療の施しようがないと言っている」
 由紀は深いため息を吐く。
「やってしまいましたか……。あー、もう終わってしまったんだ……」

 由紀は我知らず、テーブルの上に突っ伏してしまった。女が朗らかな声でいたわる。
「心配するな。藪医者どもが何と言おうと、私が治してやる。今も、首の神経を治療中だ。あと一月かかるが、呼吸は自分で、出来るようにしてやる。それから、脳も損傷している。四肢の筋肉は麻痺中だ。これも全部治す。お前が出たいと思っている日本選手権には間に合わせてやる」
 由紀は顔を上げて、女を見つめる。
「由紀よ、タダではないぞ! 治療費はしっかり、貰う」
 由紀はこの荒唐無稽な情景よりも、奇妙なことに母の財布のほうを考えてしまった。母は自分にスケートをやらせるために、けっこう無理していてくれた。その上、最近は入院ばかりで、ますます金銭的に負担をかけていた。
「あのー、分割にはなりませんか。私、治ったら、アイスショーとかいっぱい出て、その出演料で少しづつ返せたら、ありがたいなぁと思うんですが……」
 女はけらけらと笑う。
「お前は、楽しい子だ。ああ、ほんとうに楽しい。金をくれとは言わん。私とて、お前の夢の中に寄生している身だ。金なんか用がない。私がお前の神経を治療している間、お前も退屈だろう。だから、舞と歌のようなものを私から、習ってくれればいいのだ。私は媚(び)だ」
 女はテーブルの表面に指に茶をつけて、『媚』という漢字を書いた。
「媚とは私の名前ではない。名前はちょっと、今は言いたくないのだ。理由があってな。それで、媚とは古代の中国の巫女のことだ。私は媚の長であり、媚を養成する教官だった。媚の舞と呪言を私から習ってくれ。お互い、いい気晴らしになると思うのだが」
 由紀は、ほっとして答える。
「舞なら、習いたいです。私、好きです。お願いします。それで、お名前教えていただけないなら、あなたのことを何てお呼びしたらいいんでしょう? 先生でよろしいですか?」
 女はやれやれという顔をする。
「『先生』とはな、同じ漢字を使うが、私の国では『〜さん』くらいの意味しかない。私を師とするなら、『師父(しふ)』と呼んでくれ。私の国では師が男であろうが女であろうが、すべて『師父』と呼ぶのだよ」
 由紀は女に頭を下げる。
「わかりました。師父、それでは、よろしくお願いします」

 媚の長は嬉しそうに肯いた。
「では、そろそろ、その刃の付いた靴を脱げ。舞が出来るようにお前の靴を作っておいた」
 由紀の前に布で作ったきれいな靴が置かれた。赤、黄、桃色で花の刺繍が施してあった。
「師父、すごく、きれいです。ありがとうございます」
 由紀は衣服も媚の長と同じような、ゆったりとした古代の中国の女の衣服になった。髪も同じような髪型になった。即座にそうなったのだ。なるほど、夢の中かと納得した。
 
 広い板の間の天井の高い部屋で、長は舞を教えてくれた。
「由紀、これが鎮魂の舞だ」
 それは、もの静かで、心に癒しを感じさせてくれる優しい舞だった。
「由紀よ。鎮魂とはどういう意味かわかるか?」
「魂を鎮めるということです」
「そのままだな。では誰の魂を鎮めるのだ?」
「死んだ人の魂です」
「愚かもの! 人が死ねば、魂というものが残るとでも思っているのか!」 
 由紀は首を傾げる。
「魂というのは……、ないのですか?」
 教官は言い切る。
「ない。そんなものは残らない。ただ、生き残った者の中に思い出として残る。死んだ者を深く愛していた者は、その思い出を抱いて、悲しみ、苦しみ続ける。時には思いあまって、自殺したり、病を得る者もいる。そういう、生き残って苦しむ者の心を慰め、癒すのが鎮魂の舞なのだ。だから、生き残ってしまった者の苦しみ、悲しみを体験していなくては、この舞は習得できん。しかし、お前にはできる。お前はその気持ちを理解している。それと、よいか、自分の悲しみ、苦しみは自分では癒せない。他の者の悲しみ、苦しみを癒したとき、その癒しが逆流してきて自分を癒すのだ。だから、鎮魂の舞とは結局、自分を癒す舞とも言える」
 鎮魂の舞と、鎮魂の呪言、呪詞、その眼配りを習い続けた。それだけで、一月が過ぎた。