その腕に口づけを
だけど、その誰かが決して手に入らない者だとしたら、それは不幸な事なんじゃないだろうか。
姉を傷つけ、今でも自分はのうのうと生きて瑛一の傍にいる。
最後に見たのは、彼女が静かに泣く姿。あの後姉は自室で声を殺しながら震えていた。そうさせてしまったのは透自身で、一時の感情で瑛一とセックスしたのを後悔しそうにもなった。
望んだのは自分なのに……。
透はそっと、右手の甲にある痕を反対の掌で覆う。
「そのショックでお姉さんが事故にあったんだって、そう菱沢さんは思ってるんですね」
想像ではなく、それが事実だから。
「そうだよ。それから、僕達は普通の友人に戻ったし。……違う、やっぱり前みたいにはいかなかったな」
大事な者を亡くしたという心の隙間を埋めるのは、結局お互いの存在では無理だった。瑛一と透の間に残ったのは、友人という繋がり。それ以上でもなく、それ以下でもない、ただ傍にいて、共有した疵の痛みを抱えていく関係なんだろうと、そう思っていた。
「僕も椿も、本気で誰も好きになろうとしなかったんだ。…だからどこか安心していたのに」
けれど、陸也に出会って瑛一はその疵がいつか癒えるものだと知ってしまったのだ。
まっすぐで素直な想いで、瑛一の心を包み込んだ相手に、少しばかりの羨望を抱きながらも、次の瞬間に菱沢は諦めたように微笑む。
いつまでも引きずってはいられない。
透が気づかなかっただけで、すでに瑛一は自らの過去をきちんと整理していたのかもしれなかった。そして、きっとそのきっかけを作ったのは陸也なんだろうと透は確信を持つ。
「だけど、それがどうして君みたいな男の子なんだろうって、考えるだけで嫉妬で狂いそうだった。男は駄目だったんじゃなかったのかって、何度もあいつに問いかけそうになったしね」
少しだけ嘘を混ぜる。本当は狂うというより、ほんの僅かに切なくなっただけだ。同時に、嫉妬したのは陸也にではなく瑛一に対してなんだと、透はふと気づく。自分が手に入れられなかったものを手に入れた友人が、ただただ羨ましかった。
「……どうして、しなかったんですか。それに本気で好きなら、性別だって、なんだって……」
「関係ないって? そんなのただのエゴだよ。告白される相手の気持ち考えたら、そんな事……」
「エゴだって別にいいじゃないですかっ」
陸也が感情を露にした声を出す。
「…最初から逃げなかったら良かったんだ。椿さんに自分の気持ちを伝えていたら、きっと今の関係は変わっていたかもしれないのに」
「親友の立場を失うとしても?」
間を置かず、コクリと頷かれる。
「君は…強いんだね」
「違います。強いんじゃなくて、ただ馬鹿なんです。椿さんが好きだから、僕はあの人にこの気持ちを知っていて欲しい」
泣き笑いに近い表情。年齢よりも大人びたものに透の胸がどきりと波打つ。恋焦がれる相手を思い出しているんだろうと、容易に想像が出来てしまい口元が自然と綻んだ。
奇麗事だけじゃないのが恋というものだから。
陸也もきっと、感情が持つ苦さを味わっているのかもしれない。
それでも折り合いをつけて、必死に感情をコントロールしていくしかないんだと己に言い聞かせ、必死に自分の心に折り合いをつけようとしている。
瑛一と透の関係を知って平気な筈がないのに……。
「そうだね、確かに馬鹿かも。でも、そんな君だから、惹かれたんだと思うよ。……だよね、椿」
陸也に無用心だと注意したのに、自分も同じ失態をしていた。透と陸也が話し込んでいたので入るに入れなかったというのもあるだろうし、内容が内容なだけに、口を挟まない様にと決めていたのだろう。
ちょうど話のキリがいいのもあり、さっきから頬が緩みそうになっている相手に、透はわざとらしく溜息をついてやる。
「ああ。そうかもしれないな」
気づいていた透と違い、陸也は肩をびくりとさせて呆然としていた。
ずっと隠してきたのを告白してすっきりしたのもあり、透は穏やかな気持ちで二人を眺める。陸也の想いの強さを目の当たりにして、ようやく自分の想いが風化しているんだと気づかされた。
嫉妬も寂寞さも、全てが過去なんだと。
ようやく実感が沸き起こってくる。
「椿…さん」
「ドアを開けておいたのが失敗だったね。気づいたらこっちの様子伺っててさ。…さすがに僕も驚いたよ」
白々しく、わざと最後を付け足した。
いったいどこから聞いていたのだろうか。目で問いかけると、やれやれと小さく肩を竦められる。
「入りづらい雰囲気だったんだから、しょうがないだろ」
「どうだか。…で、どこから聞いてたのかな」
「そうだな。恵理子の事故が…ってあたりか」
口に出せば、語尾が微かに淀んだものの、すぐに返された。ショックや驚きはあまりないらしく、透は改めて瑛一が過去を乗り越えているんだと知る。
落ちる沈黙を、先に払拭したのは透だった。
「……ねえ、もし僕が告白していたら、椿は受け入れてくれた? 教えて欲しいんだ」
ただ、答えが欲しい。
過去には戻れないし、起こってしまった出来事を全てなかった事にするのは無理だと、二人とも十分承知しているから。ただ、お互いの関係に一度終わりを告げる為に必要な儀式の様なものだ。
陸也の視線を痛いほどに感じながら、透は瑛一の答えをじっと待った。
「大学の時、まだ恵理子と付き合う前ならな。……俺は一人しか大事に出来ないんだ」
慈しみを込めた瞳を陸也に注ぐ瑛一に、ようやく長かった恋心に終止符が打てるんだと安堵する。すでに恋とは呼べないものだとしても、どこかではっきりと決別しなくてはいけない感情だから。
「なんだ、悩んで損してた。いや……違うか。ただ僕が逃げてただけなんだ。あんな風にずるい方法を使っても、心なんて手に入らないのに」
「だったら、俺も同じだな。家族や会社の重圧に押し潰されそうになっていた時期に、あいつの手に縋って逃げたんだ。あの時は、本気で恋をしていたつもりだった。……──俺も、恵理子もな」
悔やむだけの過去にはしたくない。そこには確かに幸福な時間もあり、三人で笑ってすごした日々も存在していた。
透は微笑を浮かべながら、瑛一を真っ直ぐに見つめる。
消せない過去。それも今の透自身を象っている軌跡の一部なのだ。
「恋愛なんて男でも女でも臆病になるし、悩んだりする。菱沢がずっと気にしている性別も、俺ともっと深く向き合っていたら、きっと考え方が変わっていたかもしれないな」
「そうだね。椿なら、真剣に考えてくれるだろうし。ちゃんと答えを出してたと思うよ」
今度はさっきよりも笑みを深くした。透はさっきから自分達をずっと見守っている陸也に向き直り、そっと頭を下げて謝る。
「陸也君には、嫌な思いさせてごめんね。…でも、好きだって言った時は本気だったんだよ。僕とは違う、君の純粋な真っ直ぐさが眩しかったんだ」
「菱沢さん……」
「さて、そろそろ帰って仕事の企画練らないと。そうそうあの展示なんだけど、二月がバレンタインをモチーフにした愛なんだ。また、椿と二人で見に来てくれると嬉しいな」