その腕に口づけを
またパンフレット渡すからと残し、透はまだ何か言いたそうな陸也と瑛一に手を振ってマンションを後にした。部屋を訪れる前と訪れた後では、心の軽さが随分違っていて、ちょっとしたハプニングに感謝しそうになっている自分に苦笑した。
聞かせたくなった本音。一生隠しておこうと思った真実。
それらを告げる決意が固められたのは、皓樹がいたからだった。
一途に。ただ誰かに心を傾ける熱さを教えてくれて、最後まで貫く意志を傍らで見ているうちに、透まで触発されてしまった。
「でも、やっぱり少しだけ寂しいかなぁ……」
これで透には何もなくなって、心が空っぽになってしまった。
ずっと胸に抱いていた瑛一への想い。
そして、出会ってからずっと近くにあった温もりと強引なまでの強さ。
……どっちも大切で、大事すぎて。
次第に視界がぼやけていくのを止められなくて、透は震える唇をきつく噛み締めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
私用が忙しく、約束してた企画にしばらく参加出来ないと皓樹からメールで伝えられたのは、ほんの数時間前。
ついつい苛立ちをそのまま指先に乗せ、透は携帯のボタンを押す。
『企画に参加してくれないと困るんだ。皓樹の作品を気に入ってくれた人がいるし、次を心待ちにしている人もいるんだからね』
実際、鑑賞してくれた客に簡易のアンケートをとっているのだが、皓樹の作品は好評で次を楽しみにしているという声も多かった。
送信ボタンに指をかけ、勢いのまま送ってしまおかと考えたが、ふと我に返り作成中のメールを削除する。
一瞬にしてなくなったのは透の言い訳だった。結局、企画云々というのは引き止めようとする為の口実でしかなく、作品という繋がりがなくなってしまえば、自分達まで切れてしまいそうで怖くなってしまったのだ。
自分の気持ちなのに分からないのか……なんて陸也に言える立場じゃなかったのに。
あの日。兄と付き合っていると告白されてから、透の中で皓樹の存在が大きくなっていた事に気づいてしまった。
店に行けば会えるんじゃないかと密かに期待してみても、あの二人が一緒にいる場面を想像しただけで滅入ってしまい、どうしても足を向ける気になれない。
それに、現実問題として企画の進行が遅れている為、自分の時間を捻出する事が出来ないというのが現状で、今日もしっかりと定時を二時間ほど過ぎていたが、一向にチラシ作成の作業は終わりそうになかった。
一月には雪を。そして二月にはバレンタインをテーマに。
大切な誰かに贈る愛。世間では恋人へというのが一般的かもしれないが、透が視野にいれているのはもっと広い範囲での愛情だ。
親子だったり、友人だったり。
精一杯の自分の愛情を、大事な誰かに与えられたらと写真に写されているハートをモチーフとした絵画を眺める。今回のメインは、皓樹が以前に提供してくれたものだった。
銀色の素材はどこか冷たい印象を与えるけれど、バックの暖色系の色がそれを払拭して、柔らかい印象と共に優しさを観る者に伝えてくれる。
「大丈夫? また別の機会でも構わないから、今日は帰ってゆっくりした方がいいんじゃない?」
馨が、心配そうに声をかける。
ここ数日あまり眠れない上、残業が続いていたせいで少しだけ体調が優れなかった。けれど、透は首を横に振ると安心させる為に笑ってみせる。これ以上無理に進めようとしても、すでに集中力が欠けているので仕事にはならないだろう。
「平気ですよ。それに、前に一度キャンセルしたのにまた今回もなんて、相手にも悪いし」
「それなら、いいんだけど…」
「じゃあ、今から片付けるんで、少しだけ待っててくださいね」
透は手早くパソコンの電源を消し、机の上の資料を棚に戻す。馨の視線がまだ何か言いたそうだったが、あえて流すことに決めた。
外に出ると冬の寒さが肌に沁みていく。コートの前を合わせ直しながら、透は馨の幸せそうな顔をそっと見つめた。
これから会う相手に馨は何度も告白されて、最後にはその情熱に折れた形になったらしい。向こうの方が年下だったので躊躇していたみたいだが、結果的に根気で勝ったのは彼で、今では堂々と透相手に惚気るくらいの関係になっている。
「でも、今日はありがと。菱沢は私にとって、本当に弟みたいなもんだからさ。だから、向こうにも気に入ってもらいたいんだよね」
歩く歩調を緩めながら、馨が微笑む。
本心からのものに透はどこかくすぐったさを感じつつ、馨が選んだ相手ならきっと気に入るという確信が生まれる。
強くて、優しくて。
けれど、きっと脆い部分も持っているのだろう。
それを受け止めてくれるのは、どんな相手なのだろうか。
「あ、居た」
ぱっと表情を明るくした馨の視線を追ってみれば向こうも気づいたらしく軽く手を振る。会釈をしようとしたが、次の瞬間に思わず透の動きが止まってしまう。
「…すごい偶然」
尚樹がまじまじと透を見つめてくる。
「あれ、知り合いだったの?」
不思議そうな顔で透と尚樹を交互に見る馨に苦笑しているのは……──水守尚樹だった。
弟と付き合うからと数日前に告げていた筈なのに、どうして彼は今ここにいるのだろうか。
(皓樹の恋人になったはずじゃ……。それに、彼女にはふられたって……)
何から切り出せばいいだろうかと、口を開きかけてすぐに閉じる。そんな透を見て尚樹は微苦笑しながら、食事はまた今度にと言った後、近くにある公園に二人を誘った。
人通りの少ない場所にくると、
「改めて、水守尚樹です。って、二度目ましてだけど」
以前と同じ様に明るく自己紹介をされる。
「な…んで」
ここに…と続ければ、あっさりと尚樹が答えた。
「それは、馨とおれが恋人で、今日は君を紹介したいからって彼女に言われたから。ついでにばらしちゃうけど、おれと皓樹は恋人同士じゃないよ」
「ちょっと、話が見えないんだけど」
蚊帳の外にされている馨が少しだけ拗ねた声を出す。その後、小さな溜息をつきながら、どうして弟の名前が出てくるのかを尚樹に問いかけた。弟と彼氏が恋人同士だと聞いているのに、微塵も動じていなくて、むしろ呆れた視線を尚樹に向けている馨の態度に、透は引っかかりを覚える。
「どこから話したらいいか整理させて欲しいんだけど……。とりあえず、彼が弟の好きな相手なんだって言ったら分かってくれるかな?」
尚樹の告白を聞いて、誰が誰を好きなのかを理解できない透とは正反対に、馨は「ああ」とすぐに納得する。
(今、なんて……?)
皓樹がずっと想い続けていたのは兄だと。そうずっと聞かされていたので、今の言葉を理解するのに幾分時間がかかってしまう。
「まー、さらりと他人の想いを告白しちゃって。まったく、後で皓樹君に怒られるんだからね」
「だね。でもこの際だし。それに、いい加減に菱沢さんには気づいてもらわないと」
「気づくって……」
「自分の気持ちにだよ。……結局さ弟には甘いんだよ、おれって。やっぱり、あいつが大事だからね」
「それは私もかな。でも、今回は尚樹の味方しちゃうかも。皓樹君に怒られたら、こっちに逃げてきてもいいからね」
にこりと笑って、馨は尚樹にぎゅっと抱きついた。