その腕に口づけを
好きな人が傍に居てくれる。それは、きっと奇跡に近い。その奇跡を皓樹は掴んだばかりだ。邪魔されたくない気持ちは分かるので、透は皓樹の態度を怒る気にはなれなかった。
むしろ、気を利かさなくてはならないのはこっちだったのに。
「…尚樹さん、一つ訊いてもいいですか?」
確かめたい衝動に駆られる。プライベートに首を突っ込む行為は駄目だと理性では分かっていても、今の透にはそれにブレーキを掛けられる気力がなかった。
「なんなりと、どうぞ」
「あの、皓樹があなたに告白したって。……その、嫌悪感とかなかったのかなって」
「…んー」
尚樹は一瞬言葉を詰まらせる。けれど、少しの間を置いて返してくれたのは「別に」というあっさりしたものだった。
「そりゃ、……兄弟っていうのは多少問題あったけど、男同士というのにはまったく。そういう所は、結構リベラルに考えられるのかもしれないって、気づかせてくれたアイツには感謝してるけど」
透は、ただ相手の話を聞き続ける。そんな透に対して尚樹は一旦言葉を切り、そっと微笑んだ。
「確かに…、世間一般では同性同士の恋愛はまだ否定的な部分が多いし、好意的な人の方が当たり前だけど少ないでしょ。でも、好きだっていう気持ちを性別だけで判断する人間には、絶対になりたくなかった。だから、あいつの気持ちもちゃんと考えたよ。男が女に伝えるより、何倍も勇気がいっただろうし。ましてや、家族で血が繋がってる。それだけでも、かなりのハードルを飛び越えないといけないんだから、真剣に答えないと失礼だよ」
まあ、本当に考え方なんて人それぞれだけどと尚樹は付け足す。
(もし、あの時正直に伝えていたら、変わっていたんだろうか)
瑛一が尚樹と同じだとは限らない。それでも、彼ならちゃんと透と向き合ってくれただろう。
それは、長年付き合ってきた友人としての勘としかいい様がないけれど、どこか確信が出来た。
「それじゃ、ゆっくり休んでね。おやすみ」
「おやすみなさい」
店を後にすると、透はコートのポケットから携帯を取り出した。
資料を貸して欲しいと友人に連絡をすれば、それなら部屋に置いてあると返事がきたので、仕事帰りに取りに行くからとだけ返した。以前、瑛一から借りたままだったスペアーキーをまだ持ったままだったので、それを使うからと伝えてある。
けれど透の目的は資料ではなく、陸也だ。告白の答えを訊くというよりは、相手の気持ちがどこに向かっているのかを確かめる為に会いに行く……と言った方が正しいだろう。
アトリエを借りていると陸也から聞いたので、もしかしたらいるかもしれないと望みながら透は翌日にマンションへと足を向けた。
(あの子が好きなのは、本当なんだけどね)
恋愛と勘違いする程に惹かれたのは、まっすぐな情熱。好きなものに対しての眼差しが眩しく、傍にいたらあの熱さに触れられるかもしれないという羨望さが感情を動かしていた。
諦めてしまったものを、捨てたと思っていた想いを揺さぶられる。
マンションに着く頃には日が暮れかけていた。
エレベーターに乗り目的の部屋に向かいながら、透はそっと目を閉じて壁に寄りかかりながら、胸のうちを整理しようと試みる。
(でも、陸也君が好きなのはあいつで……)
きっと瑛一も陸也を想っているのだろう。見つめる眼差しが優しく綻んでいるのを透は知っていた。その瞳に似た色を透は昔に見た記憶がある。
ドアを開けようと鍵を差込み回してみると、すでに鍵は開いていた。静かにドアノブを回し、アトリエを目指す。
今、陸也は何を想いながらこの部屋を訪ねているのだろうか。
そっと覗くと、陸也が真剣な表情でキャンバスを見つめていた。何度も色を重ねているその絵に描かれているのは瑛一だった。赤を基調としているそれは、どこか優しい暖かさを滲ませていて、じわりと心が熱くなる。
雄弁に物語るものの存在に、透はそっと息をついた。よほど真剣なのだろう、一度声を掛けてみたけれど陸也の筆が止まる事はなかった。ドアをゆっくりと閉め、透はしばらく筆を走らせている相手の姿を眺め続ける。
(……訊くまでもないかもしれないな)
それでも、気持ちにケリをつけないと前に進めないんだと気づいているから……。
「ずいぶん熱心なんだね。さっきも声を掛けたんだけど、陸也君気がつかなかったみたいだし」
今度はさっきより大きい声を出してみると、陸也の肩が微かに跳ねた。
「どうして菱沢さんがここに…?」
「鍵はちゃんと掛けておかないと。ちょっと無用心すぎるよ」
振り返った相手に透は、わざと溜息をついてみせた。
陸也の元にゆっくりと歩み寄りながら、描きあげたばかりの絵を眺める。近くで見れば見るほど、陸也の想いがはっきりと汲み取れてしまい、思わず苦笑せざるをえなかった。
言葉では表せられない。けれど、想いは堰き止められない。
直球すぎる陸也の告白。
「これが…今のあいつなんだ。こんな風な表情するんだね、君の前だと」
「……」
陸也が息を呑む。
注がれている視線が揺れたのを目の端に捉えながら、透は瑛一に対する想いを言葉に乗せていく。大学時代からずっと想い続けて、焦がれるぐらいに好きなのに、その感情を自らの手で殺してしまった。
「……どうして君なんだろう。ずっと、ずっと……昔から傍にいたのは僕なのに」
瑛一が自分のものにならないという現実。以前はそれを受け入れられなかったはずなのに、今はどこか納得している自分がいる。
(もっと、自分に素直になればよかっただけなんだね……)
馬鹿みたいに簡単な答え。
どうして…と言いながらも、陸也だから瑛一は好きになったんだろうと透は心のどこかで理解していた。
「ねえ、陸也君」
「……なんですか?」
「あの日…事故があった数日前に姉さんとあいつが喧嘩したのは前に話したよね。……でも、それが事故の原因じゃないんだ」
「原因じゃないって……」
「確かに、喧嘩したのは事実だし、あの時……椿のヤケ酒につきあってやった。嫌な事は全部忘れたいからって、記憶がなくなる程に飲ませた後……僕は椿を誘ったんだ」
もっと躊躇するかと思っていたが、案外簡単に話し出せるものなんだと透は頭の隅で感心した。あれから数年。拘っていた過去なのにするりと滑り落ちた記憶の欠片を、透はゆっくりと拾い集めていく。
「僕が優しく介抱してあげたら、弱ってたあいつは素直に縋って、ちゃんと僕を抱いてくれたよ。ま、前後不覚になるぐらい酔わせなかったら、男とセックスするなんて気を起こさないだろうしね」
「……菱沢さん」
軽蔑というより、陸也は透の過去に受けた痛みを共感しているのだろう、震える声がどこか痛く胸に響く。
「どうしても欲しかった。だから、あの日わざと姉に見せつけてやったんだ……。今でも、あの時の姉さんの顔は忘れられないな」
怒り。憤り。
そして……深い哀しみ。
肉親と恋人に裏切られたという絶望感が、彼女を襲ったのかもしれない。
恋愛は時に人を狂わせてしまう。誰かを好きになるという事は、幸せなんだと瑛一を好きになるまでは信じてきた。