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その腕に口づけを

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 だから、と。
「僕にしてみないか」
「……え?」
 戸惑った声。
 当たり前だ。今まで冗談だと受け取っていた言葉に本気の色を混ぜたのだから。
 いくら相手が好きでも、その想いが届かないのなら結果的に切なさだけが残ってしまう。陸也には傷ついて欲しくないという願いと同時に、この純粋な優しさに触れたいという衝動が生まれてくる。
 会った回数は数えられるほどしかない。けれど、透は陸也が気に入っていた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 陸也に告白してから二週間が経ったけれど、まだ答えは貰っていない。
 気持ちの整理をするのが大変なんだろうと、その原因を作った自分が同情するのもどうかとつらつら考えながら、透は重い足を引きずるようにして歩いていた。無事に企画第二弾も好評のうちに終わりそうなのはありがたい事だが、第三弾の準備に追われていて、今更ながら企画の無謀さをひしひしと噛み締めてしまう。
(でも、やりたいんだよね)
 やっぱり、これも一種の芸術馬鹿に入るんだろうか。
 また本格的に忙しくなる前にと、透はドルチェヴィータに足を向けた。久々に鷺沼に話を聞いてもらいたいのかもしれない。もしかしたら皓樹に会うかもしれないと…少しだけ不安が胸をよぎったが、偶然はそんなに重なるものじゃないと自分に言い聞かせた。
「いらっしゃいませ。今日は一段と寒さが厳しいですね」
 シェーカーを手に、鷺沼が柔和に笑む。透はほっと肩から力を抜き、思っていた以上に緊張していた事に気づく。
 コートを脱ぎ指定席に座ると、待ち合わせですかと尋ねられた。
「違うよ。今日は一人でゆっくりと飲みたい気分だったんだ。息抜きって所かな」
「そうですか。今日も皓樹君と待ち合わせしていると思ったのですが。じゃあ、お疲れ気味の菱沢さんに、一杯サービスです」
「前もしてくれたけど、鷺沼さんて常連に甘すぎるよ。サービスしてくれるのはすごく嬉しいけど、お店として成り立たなくなったらどうするのさ」
「心配いりません。これでも人は選んでますから。それに、菱沢さんは勝手に友人のカテゴリに入れているので」
 手早くシンカーで混ぜ、オリジナルだと鷺沼は桃色のカクテルを差し出した。アルコールは抑えてあるらしく、飲んでみると甘さがじわりと透の体に沁みていく。
 優しい味。
 心の疲れは体にも深く影響する。ここにきて良かったとほっと一息ついたのも束の間、背後から聞こえた皓樹の声に胸が波打ってしまう。
「…来てたんだ」
「ちょっと休みにね。また忙しくなるから」
 いつもならすぐ隣に座るのに、皓樹は数瞬の間を置いて躊躇いがちにスツールに腰を下ろした。
 頼むのはいつもの酒なのに、鷺沼が苦笑するのを見逃さなかった。二人のやりとりを眺めながら、透はどことなく居心地の悪さを感じる。ほんの二ヶ月弱前までは、皓樹と一緒にいるのが楽しかった筈なのに……。
「なんか痩せてない? 忙しいのは分かるけど、ちゃんと健康管理しないと倒れるよ」
「…皓樹に言われなくても分かってるって」
「なら、いいけど」
 どうして目を見れないんだろうか。心配してくれたのに、簡素な返事しか出来ない自分がもどかしかった。
 透のあっさりとした態度に呆れたのか、皓樹はそれ以上話を振ってこない。一度途切れてしまった会話の糸を再び結び直すのは至極難しくて、透は口を開きかけては閉じるという行為を何度か繰り返す。
(どうやって話してたっけ……)
 何気ない日々の出来事や、恋愛話。いつもだったら何も考えずに切り出している内容すら出てこなくて、透は困惑する。
「……そういえば、透さんの方はどうなんだよ」
「どう…って?」
「前に言ってた、陸也って奴。あれから、会ってるんだろ」
「あ、うん」
 告白をしてしまった。相手の悲しむ顔は見たくなかったから…というのもあるし、瑛一に心を傾かせたくないという身勝手さも、正直なかったとは言い切れない。
 歯切れの悪い返事に、皓樹は苦笑する。それはどこか苦さを含んでいて、透の胸がずきりと軋んだ。
 どうしてだろうか。皓樹には今まで隠し事なんてしてこなかったのに。
「そうそう。透さんにも会わせておこうかな。今日ここでナオと待ち合わせしてるんだ」
「ナオって、あの……」
 兄弟だからと、ずっと隠していた想いを告白したと以前聞いていた。けれど、透は今でもどこか叶わないだろうと思い込んでいたのだが、皓樹の口元が和らいでいる所を見ると、どうやら好転したらしいと予想がついた。
「噂をすれば、だな」
 近づいてくる足音に後ろを振り返れば、透と同じくらいか少し若い青年が皓樹の名前を呼ぶ。
 皓樹の真っ黒な髪とは対照的にふわりとしたブラウンの猫毛で、細身だが背は低くなく、スーツをきっちりと着こなしていた。大人しそうだという透の見解はすぐに覆され、明るい口調で水守尚樹ですと自己紹介をする辺りは、弟と性格が似ている。透も軽く自己紹介を済ませ、カウンターに三人で座る形になった。
「じゃあ、菱沢さんとおれは同じ年なんですね。じゃあ、タメでもいいかな」
「ええ、構いませんけど」
「じゃあ、さっそく。菱沢さんも敬語はやめてね。あ、皓樹。妬くんじゃないぞ」
「…誰が妬くかよ」
 言葉とは裏腹に、面白くなさそうな顔をする。もともと顔に出やすいタイプなのは知っているし、自分の好きな相手が関わっているのだから、皓樹の態度は納得してしまう。
 からかう為なのか、尚樹はするりと透の肩に腕を回してくる。この兄弟は典型的なタイプで、どうやら兄の方が弟よりも強いらしい。ますます不機嫌になる皓樹に、透は同情するのと同時に一縷の寂しさを覚えた。
 なんとなく会話が続いていく。主に尚樹が透に質問して、それに答えていくという流れだったが、皓樹は一切口を挟んでこなかった。
 透が美術館で働いているんだと知ると、尚樹は声を明るくした。昔から絵が好きで、よく弟を引っ張って鑑賞に行っていたらしい。皓樹が絵を始めたのは兄の影響が強いんだろうと透は確信する。
「そういえば、透さん疲れてたんじゃなかったっけ。それだったら、早く帰って休んだ方がいいんじゃないの?」
「え…まあ、そうだけど……」
「まだいいだろ。せっかく知り合いになれたんだし」
 戸惑った透を気遣ったのか、すぐに言い返す尚樹を皓樹は制止した。透をじっと見つめる瞳が迷惑なんだと語っている。少しでも長く二人で過ごしたかったんだろうとすぐに気づいて、透はコートに手を掛けた。
「いや、今日はそろそろ。皓樹の言う通り休める時は休んでおかないと。今日は楽しかったので、また次の機会があったら」
「じゃあ、また今度はもっと色々話そうね。あ、じゃあせっかくだから入り口まで送ろうかな」
「おいっ」
「別にいいだろ、それくらい。鷺沼さん、皓樹に何か作ってやって。そいつのグラス空になってるから」
 尚樹が透の鞄を持って先に歩いていく。さすがに皓樹も大人気ないと思ったのか、透達の事を気にしているものの、それ以上は追ってこなかった。
「まったく。本当に大人げないんだよなあいつは。とっくに二十歳を過ぎてるっていうのに、まるで子供だし」
作品名:その腕に口づけを 作家名:サエコ