その腕に口づけを
知りたい。そう瞳が語っているのを読み取る。好きだから興味が出てしまうのを止められない。聡い陸也にとって、相手の過去に触れる行為が良いものじゃないというのは理解しているだろう。
それでも相手の想う熱い気持ちが、時に不安な想いを凌駕してしまう瞬間がある。
「陸也君は知りたいんだよね。…一つ先に聞いておきたいんだけど、陸也君は椿の事どう思ってるのかな?」
「どうって……」
「自分の気持ちなのに、分からないの?」
問い詰めている自覚はある。陸也の心が瑛一に傾いているのは明白で、こんな風に好きな相手に真っ直ぐな気持ちを向けられる陸也が羨ましくもあり、同時に愛しさを抱いてしまう。
一生懸命さでひたむきな感情。
陸也は僅かに逡巡した後、
「……多分、好きなんだと思います」
と、透に答えをくれた。
多分はっきりとは自覚できていないのだろう、その証拠に語尾が震えるのを透は聞き逃さなかった。
純度の高い心ほど綺麗なものはない。陸也が瑛一に持つ感情はきっと、すぐに恋へと変化していく。……けれど、いくら相手を想っていたとしても、それが報われる事はこれから先もきっとない。
透は、未だに心を閉ざしてしまった友人を何年も見てきたのだ。
ビジネスでは完璧に。プライベートでもそれなりに人との交流を大切にするけれど、彼が誰にも心を許していないのを透は知っている。いや、その原因を作った張本人だから感じ取ったのかもしれない。
「そう。だったら忠告してあげるけど、椿は誰も好きにならないし、愛さないよ。だから、君がいくらあいつを好きになったとしても、その想いが報われる日はこないんだって覚えておいてね」
「なんで……」
右腕に深く残った傷。
あの日の爪痕と代償はあまりにも大きすぎてしまった。
菱沢は両手でカップを包み込み、陸也から視線を外した。流れる時間が短いのか長いのか、その感覚すら麻痺してしまう。指先はだんだんと冷たくなっていくのに、背中にはじっとりと汗をかいているのが分かり、透は未だにあの時間から心が解放されていないんだと改めて自覚した。
(陸也君がこれ以上傷つかないように、話した方がいい……)
一呼吸置いて、透はゆっくりと過去へと記憶を遡らせる。
まだ、瑛一が明るい笑顔を見せていた時。……そして、その隣には姉の笑顔があった。
「椿が景色を描くのは、恵理子姉さんの影響だったんだ。菱沢恵理子……僕の姉だったんだけど、六年前に亡くなってるんだよ」
「亡くなって……」
生きていたら、きっと今でも瑛一の隣で笑っていたかもしれない。あんなに幸せそうだったのに、その幸福を透は自分の手で粉々に砕いてしまった。
絵を描くのが好きだった彼女。
その直向さは、どこか陸也に似ていた。
「もともと心臓に軽い疾患があってね、成長と共に体にかかる負担が少しずつ大きくなってからは、本当に大変だったと思う。きっと、僕が想像する以上の苦しみだったんだろうけど、姉さんは辛いとか苦しいって弱音は一切吐かなかった。それどころか、美術教師として毎日を楽しそうに過ごしていたな」
その強さに瑛一は惹かれたのだろう。一日一日を精一杯生きていた姉の姿が眩しかったのかもしれない。
瑛一に恵理子を会わせたのは透だ。
たまたま好きな作家が一緒だった二人。どうしても絶版になった画集が見たいと瑛一が透を通して頼み込んだのがきっかけだった気がする。
好きなものが似ていると先に気づいたのは自分だった。そして、感性が似ているんだと分かるのにそれ程時間はかからなく、友人が姉を想っているのも簡単に察する事が出来た。
社会人と大学生。年も日常の生活感覚も違うけれど、それすらも気にならないくらいに瑛一は恵理子に夢中になっていくのを、透はずっと傍で見続けてきた。そして、その度に胸の痛みが日に日に強くなっていくのを自覚し、透は親友だとずっと思い続けていた相手に恋愛感情を抱いていたんだと自覚したのだ。
「姉さんが見た風景を、自分も描きとめておきたい、そう考えていたのかもしれないな。あの頃のあいつは、それこそ夢中で描き続けていたよ」
「……」
「でも……あの事故があってから、椿はいっさい絵を描かなくなった」
透は空になったカップをソーサーに戻す。
「事故の数日前に、姉さんと椿が喧嘩したみたいだったんだ。絵の道を進みたいくせに、親の言いなりになっている椿が歯痒かったんだろうね。そして反対に、椿は姉さんが羨ましくて、ほんの少しだけ妬ましかったのかもしれない」
「妬ましいって、好きなのにどうして……」
「恋愛と才能は別問題なんだ。……あと、将来もね」
卒業と同時に親の子会社に入るのを余儀なくされていた瑛一にとって、美大の四年間は会社の為でもあり、ただ無心に絵に情熱をかけられる最後の時間だった。だから、どんな形であれ絵の道を進んでいる恵理子に羨望したのかもしれない。
敷かれたレールに乗るのが当然だった瑛一に、迷いが生まれたのは自然な流れだっただろう。
すでに恋人同士だった二人にとって、将来を共に過ごすというビジョンも生まれていたかもしれない。
(でも、その未来すら僕が壊してしまった……)
未だにあの時のブレーキ音が脳内から離れない。一瞬にして真っ暗になる視界。事故の直前と直後の事は鮮明に思い出せるのに、最後に聞いた筈の姉の言葉がどうしても思い出せない。
記憶にあるのは、謝罪の言葉。
ごめんねと、象った唇の残像が脳裏に浮かぶ。
「情緒不安定だったのかもしれないね。…ちょっと思い詰めてたみたいだし」
病気でなくても、簡単に人の命は散ってしまうのだと、透も瑛一も嫌という痛感した事故だったのだ。
原因を作ったのは自分。だから、この罪は一生背負っていかないといけない。
「……で、これがその時の爪痕」
透はシャツを捲り右手の甲を陸也に見せる。
白いミミズ腫れになった細い筋が肘の近くまで続いていた。筋の両端は皮膚が引き攣り、傷自体が微かに窪んでいるのがわかる。
痛みなんてすでになかった。けれど、陸也の顔が痛々しそうだと物語っていて、思わず透は微苦笑してしまう。
(きっと、感受性も強いんだろうな)
透の視線に気づいて、陸也が慌てて目を逸らす。
「あの事故の時に、僕も車に乗ってたんだけど……結果は見ての通りだよ。姉さんじゃなくて、僕が死んだら良かったのにって、あの時はよく後悔してたね」
「そんな…っ、どっちがいなくなっても、絶対に椿さんが悲しみますっ」
でも、残っていたのが姉だったらどうだろうか。
……なんて、想像はただの仮定でしかない。
それに、自分には馨が言った様に『生き』なくてはならないのだから。だから、死ぬ事は出来なかった。
けれど、この胸のうちにある苦しみをほんの僅かにでも和らげられたら……と、切望してしまいそうになる。
「ありがとう。陸也君は優しいね。そういう所も大好きだよ」
「菱沢さん……」
透は微笑みを浮かべながら、右手でそっと陸也の頬を包み込むように触れた。
「あいつを好きになっても無駄なんだ……」
未だに姉と一緒に見た景色を、時間を捨てられない瑛一。あの絵を残している限り、きっと誰が好きになったとしても無駄なだけ……。