その腕に口づけを
「結局、ライバルと一緒に楽しく過ごしてるわけなんだ。透さんて心が広いんだね」
ドルチェヴィータを訪れると、皓樹が透の指定席の隣に座っていた。月曜日の夕方という時間帯だからか店の中は数人の客がいるだけで、ゆったりとした雰囲気に包まれている。
バーテンダーにオーダーした後、透は皓樹に企画の礼と次回の締め切りを伝えつつ、最近の近況を話した。
「楽しい、かな。それに、ライバルとかって思ってないし」
「思ってないんだ」
呆れた表情の皓樹に、透は小さく首を横に振った。最初から陸也と透は同じラインに立っていない。だから、ライバルという意識が持てないんだろう。
瑛一にとって透は大学の同期であり、友人でしかないのだ。
「なんだか、憎めないんだよ。きっと、皓樹と似てるって思ったからかもしれないけど」
「俺に?」
きょとんとする皓樹に、透は楽しげに頷いた。
「なんていうのかな。自分の好きなものに対しての情熱が、とにかくすごいんだよね」
実際に、陸也の絵に対する情熱は透の想像以上だった。大学が休みなのか、あれから一週間に二、三回の頻度で陸也は美術館に足を運び、展示されている作品をじっくり鑑賞している。スケッチブックを持ち歩いているんだと気づいたのはつい最近で、帰りに風景などを描いているんだと教えてくれた。
絵を見るのも、絵に触れるのも。
会話の端々から好きなんだと感じ取れて、透は羨望を抱いていた。
「へえ、そうなんだ」
皓樹が感心した声を出す。その相手に興味があると目が語っていて、透は微苦笑を思わず浮かべてしまった。技術や技巧は違うとしても、同じ分野なのだから会って話せば盛り上がるんじゃないだろうか。
昔、瑛一と自分がそうだったように、感性を磨いていけるのかもしれない。
「…ねえ、もしかして透さんてそいつの事気に入ってる?」
「え?」
「だって、仕事場にくる度に声掛けてるんだろ。それに、楽しそうだし」
「それは、そうかもしれないけど…」
実際、最近は陸也が来るのを心待ちにしている自分がいるのを否定出来なかった。透が企画をした展示を真剣に見る姿や、透に懐いてくれているのが可愛いくも感じられる。
瑛一があの子に癒されているのだとしたら、きっと自分もそうなのだろう。
まっすぐで純粋な陸也の瞳を思い出す。
喜怒哀楽が激しく、思った事をすぐに口にしてしまうのが自分の短所だと陸也は教えてくれたが、そのまっすぐな性格に透は好感を持った。自分の気持ちを相手に伝えるのが苦手で、ついつい上辺を取り繕うとしてしまう自分とは正反対な性質に、惹かれているのを自覚する。
「もしかして、好きになったとか……」
「まさか」
けれど、とくり跳ねた鼓動が透を戸惑わせた。
皓樹は苦笑しながら、バーテンダーに追加のオーダーを注文する。すぐに出されたグラスを受け取った後、皓樹は口元を微かに歪めた。
「…片思いの相手が駄目だって分かったら、次はその相手? 透さんの気持ちってその程度だったんだ」
「誰も好きだって言ってないだろ」
「だったら何で動揺してるんだよ。隠しても分かるんだからな」
真剣な眼差し射竦められる。普段は屈託のない表情を見せているだけに、無意識に肩がびくりと揺らいだ。そんな透の反応に気を削がれたのか、皓樹はすぐに目を逸らしてカクテルに口をつける。
「まあ、でも気持ちどうこう言っても、決めるのは透さん自身だけどね」
「……」
「…そうそう。今度会って報告しようと思ってた事があったんだ」
皓樹が話を切り替えていく。陸也の事から話題が離れるのはありがたく、皓樹の口元にさっきとは打って変わって、嬉しそうな笑みが滲むのを透は見つめた。誰かを思い出しているのは一目瞭然で、心を占めている相手が誰なのかをすぐに読み取る。
「ちょっと前に、兄さんが彼女と別れたんだ」
「でも、今度結婚するって……」
「別れたから、それも破棄されたってわけ。当たり前だけど、あの人すごく落ち込んでたから俺が必死に慰めて、今は結構立ち直ってるよ。まあ、慰めるついでに告白までしたのは自分自身驚いたけど」
「告白って、実の兄なのに……」
してしまったのはしょうがないだろ、とあっさり返されてしまっては何も言えない。
けれど、その結果が悪い方向に転ばなかったのは、皓樹の表情を見ていれば分かる。
「受け入れる受け入れないは別として、ナオが俺を嫌わないって分かっただけでも良かったんだけど、向こうが真剣に考えるって言ってくれたんだ。だから、まだチャンスはあるかなって」
「そう…なんだ」
咽がひりつく。
まだ成熟するかどうかも分からない。けれど、きっと上手くいくような予感がする。
ちりちりと胸を焦がす衝動が何なのか。
皓樹の恋も自分の恋も、絶対に上手くいかないと勝手に決め付けていた。けれど、現実は違っていて、透だけが取り残されてしまった様な錯覚に陥ってしまう。
「だから、透さんとはもう寝ない。……いいよな」
それは皓樹のけじめなのだろう、透は分かったとだけ告げ、そっと頷いた。
「せっかく陸也君が、あそこの作品じゃなくて僕に会いにきてくれたと思ったのに、あいつの事が知りたいなんて面白くないな」
冗談めかしたつもりだったが、陸也がしゅんと項垂れてしまったので、透は慌てて片手を振る。
「…すいません」
「嘘だよ。いじめてごめん。でも、そうやって困っている陸也君も可愛いね」
実際に、見目可愛い年下の青年は鑑賞に値する価値は十分にある。それだけではなく、明朗な性格をしているので、その明るさに触れると心が癒されるのだ。
いつも食事やお茶に誘うのは一方的に透の方で、今日空いていますかと尋ねてきた陸也に少し驚いていれば、瑛一の事で訪ねたい事があると告げられた。微かに赤くなっている頬が雄弁に陸也の想いを表しているけれど、本人はまったく自覚がないんだろう。
苦い笑みを漏らしそうになりながら、透はちょうど昼休みだからと陸也をランチへ誘った。
長くなりそうかもしれないと、近くのカフェで食事を軽く済ませ、透は食後のコーヒーを飲みながらどこから話そうかと思案する。瑛一の何が知りたいのか、陸也自身も上手く言葉に出来ないのだろうというのは容易に想像がついた。
真剣に思われている友人が微かに羨ましく、そしてどこか妬ましくもある。
「僕と椿が大学の同期だっていうのは知ってるよね」
「はい。同じ学科だっていうのも聞いています」
「僕達は油絵をお互い描いていたんだけど、以前の椿は人物ばっかり描いていたんだよ。人が見せるいろんな表情が好きで、それを少しでも表現したいって言ってたな」
「でも、あそこにあったのはどこかの街並みとか、緑が多い場所とか……」
そう、人物画は全部処分されている。
瑛一は「人」に対しての執着を捨てるという意味で、描いた絵を全部処分したのだ。けれど、たった一枚だけ例外があった。それを陸也は見つけてしまったのかもしれない。
「椿が風景画を描き始めたのは、ある事がきっかけだったんだ」
「……ある事って、それを聞いてもいいでしょうか」