その腕に口づけを
意思の疎通をしている尚樹と馨に対し、透はただ戸惑うしかない。
(皓樹が僕を好きだって、いつから……)
胸が痛み出し、透は二人から慌てて目を逸らした。そんな透に、尚樹は更に話しかける。
「あのさ、身内に同性を好きになったって告白されて、あっさりとはいそうですかなんて認める人がどれだけいるんだろうって考えた事ある? ……まあ、こればっかり経験しないと分からないし、する人って稀だろうけど」
一旦言葉を切り、呟きが落とされた。
「…少なくとも、僕はそう簡単には認められなかったよ。だから、しばらくは何も返せなかった。否定も肯定もしてやれなかったんだ」
言い分は最もだ。
けれど、尚樹の口調や態度からは不快感や軽蔑は少しも感じられない。事実を淡々と述べられ、透はただじっと黙って聞いているしかなかった。
「でも、そんな時馨に怒られたんだ。信頼して話してくれた相手に対して、失礼な態度をとるんじゃないってね。拒絶でもなんでも構わないから、きちんと自分の本当の想いを伝えるのが礼儀なんじゃないのかって」
信頼と誠意には、同等のもので返しなさいと。
特に、皓樹と尚樹の場合は兄弟だ。もしかしたら二人の関係にヒビが入るかもしれない。
現状が変わるのが怖かったのは……皓樹だと、透は寂しそうに微笑んでいた表情を思い出した。誰を想っているのか、心を向けているのか。ずっと兄へだと思い込んでいたけれど、それら全てが自分に注がれていたのだとしたら……。
そして、尚樹は全てを知っていたから、を思いやって透に対し弟の恋人だと嘘をついたのだろう。
ずっと隠していこうと決意した皓樹。
なのに……と深く落ち込みそうになった透の思考を読んだのか、尚樹はほんと馬鹿だってよねと、苦笑混じりに返してきた。
「どっちもどっちなんだよ。君も皓樹もね。大事なのは、今誰が好きだって事なんじゃないかな」
「菱沢は、皓樹君の事が好きなんだよね?」
馨が笑みを含ませた声で問いかける。分かっていて聞く所が彼女らしいと思いつつ、透ははっきりとした口調で返した。
「はい。……ずっとあいつを傷つけてきたのに、今更かもしれないけど」
どうして泣きたくなったのか。
どうして、離れていくのが辛かったのか。
今ならその答えが導き出せる。
「ねえ、菱沢。人はね生きてるから苦しめるのよ。誰かを好きになると楽しいけど、他にも悲しみや苦しみがあるの。でもそれを乗り越えて、幸せを掴もうと必死になる。だから、あなたもしっかりと掴まなくちゃね」
馨が透の背中を押してくれる。
生きて苦しみなさいという部分が、ずっと胸の中に響いてたけれど、姉を失った当時の透に馨はちゃんと今みたいに伝えていたんじゃないだろうか。印象に残った部分だけが強すぎて、今まで思い出せなかったけれど、馨の言葉が記憶を触発させる。
(生きて苦しみなさい。……そして、苦しんだ分だけ絶対に幸せになりなさい……だったな)
透は、馨と尚樹に感謝の意を込めて深く頭を下げた。
偽って、偽った結果が姉の死だった。だから、今度は間違えない様に。
「ありがとうございます。それから、今日これから行く所が出来たから一緒に食事するって約束守れないかと……」
「また仕切りなおしでいいわよ。今度は、四人でね」
「……森本さん」
「さて、私達は二人で食事してくるから。ね、尚樹」
「そうだね」
透は二人にもう一度軽く会釈をした後、逸る気持ちをなんとか宥めながら駅へと足を向けていった。
マンションに向かっている地下鉄の中で、行っても皓樹がいない可能性がある事に気がついた。
ただ会いたいという衝動のみで動いている自分に苦笑しながら、どうしても抑えられない激情がまだあったんだと胸が熱くなる。こんなにも好きなのに、指摘されるまで恋だと理解出来なかった自分はどこまで鈍感なのだろうか。
駅の改札を抜け、マンションを目指す。
初めて訪れたのは二年前。親しくなって、お互いが過ごしている生活環境を知って。少しずつゆっくりと皓樹の存在が透の日常に馴染んでいき、連絡をとって会うのが当たり前になったのはいつからだっただろう。
繋がるのは、どちらかの努力が常にあったからだ。そして、いつも先に手を伸ばしてくれていたのは皓樹だった。
(いつも甘えてばっかりで……ごめん)
足早に階段で三階まで上がる。
表札部分に「水守」とシールで貼られているのを確かめ、居て欲しいと祈りながら微かに震える指でインターフォンをそっと押した。
まつ間の時間が長く感じる。やがて数秒の間を置いて『はい』と皓樹の声が聞こえてきた。たった数週間なのに、何年も会ってなかった様な錯覚に陥ってしまう。それだけ皓樹に会いたかったのだと実感して、透の目頭が熱く熱を持つ。
こくりと咽喉が鳴り、指先と同様に声を震わせながら透は名前を告げた。
『どうしてここに……』
ブツとスピーカーの音声が切れ、ガシャ…と施錠が外される音がする。ドアを開け驚いた表情をしている皓樹に、透は目を細めた。
濡れてしっとりとしている黒髪。紺色のシャツも少しだけ湿っている気がする。ああ、風呂に入っていたんだと納得している場合ではないのに。
もっと緊張するかと心構えをしていたけれど、いざ本人を目の前にすると安堵感が胸に広がっていった。
「透さん、なんで……」
「どうしても、皓樹に会いたかったから」
ずっと触れたかった存在。
呆然としている相手の腕を掴み、そのまま勢い良く引き寄せる。いきなりの行動に体勢を崩した皓樹が、思わず透を腕の中に抱き込んだ。慌てて離れようとするのを、透は皓樹の背中に腕を回す事で阻止する。
やがて、そのまま抱きしめる腕の力が強さを増していく。
見上げれば噛み付くようなキスが落とされ、何もかもを奪いつくしたいと角度を変えながら口づけられて、透は乾いた心が潤いを取り戻していくのを感じる。
どれだけ抱き合っていたのだろうか、唇が離れる頃には息が上気して足元がふらつき、上手く立つ事すら難しくなっていた。
「透さん…透さん……っ」
肩口に皓樹が顔を埋めながら、何度も透の名前を呼ぶ。我慢していたのは自分だけじゃない。
きっと、終わりにしたいと関係を断ち切ろうとした皓樹も、同様に苦しかったんだろう。好きな人には幸せになって欲しいという願いは本物だとしても、折り合いがつかなくなってしまい、自分の心を守るための自己防衛が働いてしまう。
その葛藤の結果、皓樹は兄と付き合うと嘘をついて透から離れていったのかもしれない。
「皓樹、好きだよ。…ずっと言えなくてごめんね」
気づくのが遅くてごめん。ずっと甘えててごめん。
「俺も、ずっとあなたが好きだった」
そろそろと顔をあげ、皓樹が透を見つめた。
眦がほんの少し下がり、頬を緩ませる。皓樹が嬉しそうに微笑むのを見て透の胸が甘く疼いた。
この想いを伝えたくて再び好きだと唇に乗せると、今度は優しいキスをくれる。
身を離した後、透は皓樹に聞きたいことがあるからと口を開いた。
それから、来た理由を作ってくれた尚樹と馨との会話を話す。皓樹は、そこでばれたんだと小さく息をついて、ほんの少しだけ苦く笑った。