その腕に口づけを
長くなりそうだからと、透を部屋の中に招く。部屋の中は製作中の絵が数点置かれており、ベッドに座ってくれたらいいよと言い、皓樹はキッチンへと姿を消した。
しばらくして二人分のカップを持って戻ってくる。
カップを手渡しながら、皓樹が透の隣に腰を下ろした。
「いつから僕の事を?」
あの店で出会うよりもずっと前に、皓樹は透を知っていたと答えをくれた。それがどこなのか、知りたい。
前髪を無造作に掻き上げ何度か口を開きかけては閉じ、少しの間逡巡していた皓樹だが、やがてゆっくりと話し始めた。
「……大学で」
その頃はまったく芸術関係に興味がなく、むしろ面倒くさいという気持ちしか持っていなかったと微苦笑する。
皓樹は掌で左膝を緩く撫でながら俯いた。
「中学の頃だけど陸上部で、これでも県内で結構有名な選手だったんだ。小学校から走るのが好きで、短距離では負けなしだったくらいだし。……けど、事故で好きな事が出来なくなったせいで一時期すごく落ちて、見かねた尚樹…兄貴が色々外に連れ出してくれたんだ。ほら、前にドルチェで話してただろ」
透はすぐに思い出す。
確か、ギャラリーにも通っていたと付け足していた。
「行くのは全部あいつの趣味で、美術館や博物館。本当に色々引っ張りまわされたな」
透はそっと皓樹の手の甲に自分の掌をそっと重ねた。
好きだったものを手放した時の胸の痛みは、透が想像する以上に辛い筈だ。淡々と皓樹が喋れば喋る程、その痛さが伝わってくる。
きっと、その頃の皓樹にとって、走ることは生きている糧みたいなものだったのかもしれない。
「でも大学って?」
「ちょうど兄貴の先輩が透さんの大学にいて、文化祭みたいなのがあるからって連れていかれたんだよ。そこで兄貴とはぐれて困っていたらさ……透さんが声かけてくれたんだ。それが初めて透さんを知った時かな」
「文化祭って、藤宮祭か」
「そう。そこで一人だった俺に声をかけて、部室に誘ってくれた。その時、サークルで似顔絵描きますってやってただろ?」
「……ああ、確か」
透が通っていた大学は十一月の初めに藤宮祭というのが三日間開催される。保護者や高校生、一般も入場可能な日があり、確かサークルの資金集めも兼ねての似顔絵描きをしていたのを思い出した。
「居心地悪そうにしていた俺に、透さんはちょうど自分も時間が空いてるからって付き合ってくれてさ。そこで一枚描いてくれたんだ」
「君の似顔絵、だよね」
「その教室には俺しかいなかったんだから、そうでしょうとも」
おどけた返し。自力で思い出す様にと暗に促されている。
思い出したくないと、大学時代を思い出そうとしなかった。けれど、今は反対に忘れようとしていた自分を少しだけ恨んでしまいたい気分だった。皓樹が大切にしていた時間。その時間を確実に自分も共有していたというのに。
「しょうがない、ヒントをあげますか」
皓樹は持っていたカップと透の手の中にあったカップを両方テーブルに置き、一度透から離れると、本棚に仕舞ってあるスケッチブックを取り出し戻ってきた。大学ノートサイズのそれを透に渡され、透はそっと表紙をめくる。
「これって……」
「透さんが描いたんだよ。その時さ、笑えなかったんだ。なのに、この絵の俺は笑ってるだろ」
「あ、うん」
そこには鉛筆で描かれた幼い皓樹が笑っていた。
懐かしいタッチ。懐かしい、自分の絵。
無意識に指で紙を撫でていた。そこには、まだ描くのが好きだという想いが詰まっていて……──思わず胸が熱くなる。
「笑った顔を見たかったから。だから想像で描いてみたんだって、あの時これをくれた透さんが言ったんだよ。その時さ、馬鹿みたいだけど自分の笑った時の顔ってどうだっただろうって真剣に考えたんだ。いったいいつから、こんな風に笑わなくなったんだろうって」
皓樹の瞳の色が和らぐ。
「それから、どうしたらこの絵みたいに笑えるんだろうとも」
「皓樹……」
「俺に今の生き方をくれたのは、透さんだよ。あの時に貰った言葉や時間。それがあるから、今ここにいるんだ」
次第にぼやけていく相手の輪郭。
胸が苦しくて息がうまく出来ない。
「……っ」
「人間て案外タフに出来てるって、後から気づくんだ。どん底から這い上がって、初めて自分が立ち直ったんだと分かるのかもしれない」
手からスケッチブックが離れていく。皓樹はそれを床の上に置いた後、透の手を取り右手の甲にある傷に優しい口付けを落とす。
何度も眺めていたのが分かるくらいに画用紙の角が少し折れていたり、表紙の裏に鉛筆が擦られた跡が残っていた。皓樹の言葉どおり、あの絵があるから立ち直れたのだろう。透にとって何気ない一場面だったとしても、相手にとっては人生を左右するぐらいのものだったのだ。
申し訳なく思う気持ちと同時に、愛しい気持ちが心を満たしていく。
「…ねえ、脱がせていい?」
手を引かれて立ち上がると、ぎゅっと腕の中に抱き込められた。耳朶を甘く噛まれ、身が微かに震える。
透は素直に頷きながら、愛しさを込めてそろりと皓樹を抱きしめた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「こんな所にいたんだ。急がないと、もうすぐ式が始まるよ」
いつもはカジュアルな服しかしない皓樹も、結婚式なのでスーツに身を包んでいる。今日は尚樹と馨の結婚式で、透は同僚として、皓樹は親族として出席していた。
「分かってるって」
目ざとい皓樹は、会場に透がいないのにすぐ気づいたらしい。すぐに戻るつもりだったのだが、実際は三十分以上をロビーに備え付けてあるソファーに座って過ごしている。馨の家族ではないのに、どうしても感傷に浸りそうな自分がいて思わず透は苦笑した。
「お姉さんを取られて、寂しい?」
皓樹が透の隣に座りそっと顔を覗き込んでくる。
「寂しっていうより、どこかほっとしてるかな。森本さんには幸せになって欲しいんだ」
少なくとも彼女も僕の姉の事で影響を受けた一人だと透は確信している。透に伝えたあの言葉を、きっと自分にも言い聞かせていただろうから。姉の苦しみを察せられなかった、気づいてやれなかったと責めた過去もあったかもしれない。
「絶対に幸せになるに決まってるって。だって、相手はあの兄貴だよ」
「確かに。尚樹さんなら彼女を包んでくれるだろうね」
「そうそう。身内の欲目ってわけじゃないけど、本当に敵わないって痛感する時があるんだ」
尚樹と血が繋がっている皓樹も、十分その素質があると気づいているんだろうか。透の疵を癒してくれた相手の指に、透はそろりと自分の指を絡ませた。
「尚樹さんは森本さんを包んでくれた。そして、僕は君に包まれて癒されたんだ。だから、敵わないなんて事ないよ」
「透さん……」
「なに?」
「……ここに人がいなかったら、今すぐにでも押し倒したいんですけど」
「…ばーか」
透はすぐに手を離し、ソファーから立ち上がる。
熱を持った頬に軽く手をあてながら歩き出す。慌てて後を追ってくる皓樹の気配を感じ、透は口元をほろりと綻ばせていった。