あぁ、麗しの君
四谷はむんと胸を張りザカザカ歩いて行く。
小夏はその隣をちょこまかついていく。
しかしその大袈裟な歩き方とは裏腹に、四谷は内心いかにして小夏を喜ばせようかと悩んでいた。
四谷は小夏を上方から盗み見た。
後頭部すら愛らしい。
四谷はますます頭と心を痛める。
(…可愛い…何故こんなに可愛いんだ小夏ちゃん。俺は君が存在するだけで天国状態だ。…その上隣で!…あろうことか真横で!…プールで浮き輪で水着で…)
四谷はぶんぶんと首を振る。
気をとり直してもう一度ぼんやりと夢想にふける。
(…それだというのに俺は彼女に何一つしてあげていない。プール大好き水大好きと思える様にしてあげるなんて到底出来そうもない。あぁ!でも俺は彼女を喜ばせたい…喜ばせたいんだ!)
四谷は興奮あいまって太陽を仰ぎ、次に勢いよく小夏を見下ろした。
…しかし、そこに小夏はいなかった。
あるのは平らなプールサイドだけ。
「えっ!…えぇっ?!こっこっこっ小夏ちゃん??!」
四谷はパニックになりつつきょろきょろと辺りを見渡した。
赤い水着の眠そうな美女。
流れるプールで逆に歩くおばさん。
細マッチョな親父。
ゴリマッチョな美女。
子供連れの焼きそばを食べる親子。
アイスを食べる親子。
…を、見つめる小夏。
「こなっ…!!」
四谷は急いで小夏を追った。
流れるプールからはむしろ遠ざかっている。
(しまった!すっかり忘れていた!彼女はまだ『8歳』だった!!)
四谷は自分がいつまで小夏のはまる浮き輪を握っていたのか思い出せない。
妄想?しすぎていたのだ。
「こっ小夏ちゃん!」
名を呼ばれたことに気付いたらしい小夏はハッと四谷を振り仰いだ。
そして睨んだ。
四谷は切なさで倒れそうになった。
小夏はむっつりとした顔で四谷を睨み続ける。
「…かーくん」
「ひゃいっ」
四谷は訳がわからずすぐにでも謝る体勢に入っていた。
情けない男なのである。
「かーくんっ…がっ」
…急に、小夏の顔が歪んだ。
四谷はドキリとする。
アイスを食べる親子はいぶかしげな顔でそそくさと逃げて行く。
小夏は浮き輪の両端を握りしめ、なおも四谷を睨んだ。
「かーくんがぁっ悪いの!小夏悪くないもんっかーくんがぁっかーくんがぁっ悪いんだもん悪いもんっ」
小夏はべそべそと泣き出した。
とても可愛らしい様子だ…と四谷は思っていた。
四谷は必死で自分の幼少期を思い出した。
しかしそれはあっさりと出てきた。
何故なら今の四谷と8歳の四谷の精神年齢はさほど違いが無かったからである。
四谷は思い出す。
あの、切ない気持ちを。
自分のせいで迷子になったんじゃないのになぜか親に怒られる理不尽さ。
ちゃんと俺を見とけよという怒り。
でも生きて再会出来てよかったという安心。
こんなに不安だったのに探してる間にうっかり他の美味そうなものに気をとられてしまい、あろうことかその現場を発見された時の気まずさ、悔しさ…。
四谷はそれらを気持悪いほど鮮明に覚えていた。
だからこそ、小夏の気持ちが痛いほどよくわかった。
「…小夏ちゃん、ごめんね。一人にして。」
四谷は腰を屈め、きちんと小夏と向き合って言った。
自分に暗示をかけながら。
(このこは8歳このこは8歳このこは8歳このこは8歳このこは…)
四谷は家庭科の授業で習った「小さいこと話すときは威圧感を与えないよう視線を合わせ、きちんと会話をしましょう。」ということを何故かしっかりと覚えていた。
…というかそんなことしか覚えていなかった。
彼は世界史の授業では「カニシカ王」とか「カラカラ帝」とか「完顔阿骨打」とかしか覚えられないタイプなのである。
…だからこそ四谷はしっかりと小夏の瞳を見据えたのだ。
己に暗示をかけながら。
(8歳8歳はっ…)
四谷の目の前にはぱっちりとした瞳に、ふわりと長くこまかな睫毛。その睫毛の上にはきらきらと反射する涙の粒がのっている。
唇は小さく、かつぽってりと紅く柔らかだ。
すっと通った鼻筋に小さな鼻は小さな玩具の様に繊細な作りになっている。
四谷は可愛さのあまり頭が真っ白になった。
あの、ストーカーの前に踊り出た時と同じ様に。
四谷は何も言わず突然しっかりと小夏の小さな掌を掴んだ。
小夏は目を丸くする。
そして四谷は手を繋いだまま走りだした。
スピードは小夏にあわせ、非常にゆっくりではあったが。
「…かーくん?」
四谷の頭のなかは相変わらず真っ白なままだった。
ただひたすらに、しっかりと小夏の手を握っているのだった。