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深川ひろみ
深川ひろみ
novelistID. 14507
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君が教えてくれたこと

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序章 桜の樹の下で



 はじまりは、一九九八年五月六日のことだった。
「失礼しましたー」
 中里安人(なかさとやすひと)は、一礼して職員室を出た。
 午後四時。授業が終わって、既に三十分以上が経過していた。廊下を行き来する生徒は少なかったが、彼らはみな一様に好奇心の混じった視線を送ってくる。
 静岡県立霧島高校の制服―――「標準服」はブレザーなので、学ランの制服から彼が転校生であることが知れる。身長は一七五センチ弱ほどで、肌は浅黒く、髪は元々色素が薄いらしく茶に近い。日本人にしては彫りが深く、切れ長の眼とあいまってどこか異国風というか、大人びた顔立ちをしていた。
 安人は通行人の中でたまたま眼が合ったひとりに、軽い笑みを浮かべて見せた。不意に少年っぽい人懐っこさがそこに現れ、物珍しげに安人を見ていた少年の顔にも自然に笑顔が浮かぶ。
 職員室は一階にあった。霧島高校の校舎は上から見るとコの字型になっており、大きく開いた廊下の窓からは中庭が見わたせる。石畳が敷かれたその空間の中央に、大きな桜の樹が立っていた。もう、花の影はない。葉は青々と茂り、五月の陽射しをうけて眩しいほどの輝きを見せていた。
 花が散った後の桜の樹って、ケムシが多いんだよなー。
 中庭に眼を向けた安人は、ちょっとそんなことを考え、次いで樹の下に立つ男子生徒に気づいた。
 何だ、あれ……?
 一瞬考えたが、何をしているかはすぐに判った。
 男は一眼レフのカメラを構え、ファインダー越しに真剣な表情で青々と茂った枝を見つめている。
 ずいぶんと大きなレンズがついているのが見える。視界を広く捉えるための広角レンズ、というやつだ。安人自身は写真は不案内なのだが、周りにカメラ好きがいたために何となく判る。
 写真部か?
「いいの撮れんのー?」
 男がシャッターを切るのを待って、安人はのんびりした口調で声をかけた。
 男は身体を起こし、安人を見た。身長は安人と同じか、少し低いぐらいだろう。表情を僅かに緩める。黒眸がちで、やや下がり気味の眼は聡明そうだったが、冷たい印象はなかった。
「葉がきれいだからさ、撮っておこうと思って」
 柔らかな口調で答えた。いまどき珍しいほどに整った、丁寧な標準語だ。受け答えは控えめだったが、どこか場慣れしているようにも感じられた。「書生」などという言葉がふと意識を掠めるような、物静かな雰囲気の男だった。
「へえ、新緑っていい感じだもんな」
「転校生?」
「ああ。明日から。おたく、写真部?」
「うちに写真部はないよ。個人的に撮ってるだけ」
 男はカメラを降ろした。
「いいのか、こんな職員室の真ん前で写真なんて」
「別にカメラの持ち込みも撮影も禁止されてないから。うちは校則ゆるいよ。私服も可だしね」
「知ってる。だから霧島にしたんだ。今から制服買うんじゃ勿体ないだろ?」
 男は笑った。
「余裕だね。うち、一応進学校なんだけど」
「落ちこぼれないように頑張るよ。俺、中里。三年一組に編入するから、よろしく」
「え? じゃあ一緒だ。ぼくも一組だよ。内原っていうんだ」
「内原か。ラッキーだな。もう顔見知りができた」
 「偶然だな」と言ってから、男―――内原はわずかに怪訝な表情になる。
「それにしても、三年の今頃編入?」
「親父の仕事の都合でさ。―――邪魔してごめん。じゃ、また明日な!」
「うん、また明日、中里」
 男は言って、軽く手を振った。窓から離れた中里がチラリと振り返ると、彼は再びカメラを構え、真剣な眼差しで桜を見つめていた。