時明かりに結夢
紺碧の森に戻れば、真那賀は既に神を下ろす為の台座を拵えている所だった。
先刻の一枚岩の神籬を礎にその四隅に若い柏の枝を立て、それぞれに明暗顕漠の四色の布を結んでいる。
「早かったわね」
柔らかな表情に、既にあの切り傷は無い。呪術で隠してしまったのかと一瞬だけ不安を抱いたが、気づかない降りで遣り過ごした。都来は行李を開き、都合のものを主人へと渡す。主人は一通りを見回すと頷いた。それから、と差し出される二対の陶磁の瓶。
「要り用だろうと禰宜から預かってきた」
神巫女は些か驚嘆した様子だったが、すぐに破顔して、
「全く、父には敵わないものね」
封じられた瓶の中は清酒と杜の神水だ。御酒はともかく、神水を要するのは限られた場合のみ。神結いはその限られた内のひとつ。それは都来でさえ見聞きしていたことだった。
「有難く使わせて貰いましょう」
注連縄を岩へ張り巡らす。紙の栓を合口で切り、岩とその周囲、若葉の端へ振る。さらり、自然の表面が透明な雫を吸い取る。
「榊を」
上向きに述べられた掌に鈴の玉串を差し出す。凛、と鋭い音が響いた。
「それでは」
凪の如く風が止む。真那賀の聲だけが空気を伝って拡がっていく。
そうして、神巫女は神妙に口を開いた。
「高天原に神留座す――」
ゆうに一時はそうしていただろうか。
南天に高かった太陽も、今では随分西に下っている。森のうちに響くのは祝詞の聲のみ、時折調子をつけるように鈴の音色が交じる。
真那賀は休みなく神籬へ向かい、都来はその後ろでただ黙するばかりだった。時折よろめきかける彼女の背を支えじと手を伸ばす。しかし巫女はと言えば、自らの四肢で大地を踏み直し、射干の手を借りることなく独り立ち向かうばかり。
まるで時間そのものが凍り固まってしまったかのような。何が変容するでもない、ただ、何かの息遣いが規則的に森を包んでいる。
「祓い給い清給由を」
汗が落ちる。その度に都来の眉根に深く皺が刻まれる。聲をかけていけないことは知っていた。言霊に言霊をぶつけてはいけないと、教わらずとも理解している。真那賀の務めを眺めながら……人間の生を眺めながら得たもののひとつだった。
故に、その名は喉の奥で呼ぶ。
真那賀。
口を開いては押し黙る。その繰り返しばかり。
「八百萬神等諸共に――」
ぱたり、汗が落ちる。一瞬だけ大地に黒色を広げたそれは忽ち吸い込まれて消える。柏に結んだ絹布が更々と揺らぐ。真那賀の頭が大きく右へと傾いだ。玉串を握り返し、呼気を挟んで顔を上げる。睨み上げるが如く祝詞を投す。
「――所聞食と申す」
言葉尻に掛かるようにして風が吹き抜ける。携える鈴を揺らすことなく。それはつまり、ただの森風ではない証。
やがて、凪よりも冷ややかな静寂が周囲を支配した。
そうしてたった一聲。空気を伝うことなく、直に真那賀の耳奥へと届いた。
去ね、と。
後に残るは溢れ戻った木々の騒めき。
膝を折る、憔悴した巫女の姿。