綿津見國奇譚
二、クサナギ
明るい日差しの中、木陰で昼寝をしていたクサナギは、鼻の下がむずむずするので目が覚めて起きあがった。するとたちまち子供たちがまわりを取り囲んで笑い出した。
「わー、あっはっはっは」
「え? なんだ。なんだ」
子供たちは腹を抱えて笑っている。通りがかった人までが、クスクスと笑う。
「なんだい、いったい」
「クサナギ!」
と、鏡を出してきたのはヒムカだった。色白で、頬のほんのり赤い元気な少年だ。髪は黒く、ちょと縮れたくせっ毛が飛び跳ねている。
あの日から八年の月日が流れた、ここはホデリ族の邑。
「うわ、なんだこれ」
鏡をみるなり、クサナギは叫んだ。いつの間にか、鼻の下にヒゲが生えている。
「クサナギは、ヒゲが生えないってなやんでたから、ぼくがつくってやったんだよ」
黒目がちの大きな目をきらきらさせて、ヒムカはいたずらっぽく笑った。その胸には、ルビーのペンダントが輝いている。
クサナギは十八才。つややかな黒い髪を背中で束ね、背はすらりと高く、目元の涼しいさわやかな青年になった。日々鍛えてきた肢体は筋肉もつき、無駄なく引き締まっている。
一年前に、賢者の一番下の位「賢子」を授かり、若手では、最も有望と期待されるクサナギだが、一つだけ悩みがあった。それはヒゲが薄いことだった。
ホデリ族はみな髪もヒゲも長く伸ばす。父のムラクモは、口ひげもあごひげもりっぱで、誰もがうらやましがるほどだが、クサナギはどうやらヒゲの薄い体質らしい。日頃、鏡をみては、賢者のはしくれらしく、ヒゲをたくわえたいとこぼしていたのだった。
「こらー」
「うまくできたでしょ。鹿の毛をはりつけたんだよ。苦労したんだから」
笑いながら、ヒムカは数人の子供たちと、森の方へ逃げていった。
ヒムカの天真爛漫な笑顔を見るたびに、クサナギは、さらわれたサクヤのことを思い、胸が痛んだ。おそらく、母のスセリ媛にうり二つだろう。ヒムカの顔立ちも、母の面影を写している。
未だに、ヒムカがクシナダ族の王の末裔で、さらわれた双子の妹がいることを話せなままでいたクサナギは、知らず知らずのうちにヒムカのまっすぐな目で見つめられると、つい目をそらしてしまうようになっていた。
それは逆に『術を使う力のない自分はクサナギに疎まれているのではないか』という不安をヒムカの心にかき立てる原因になった。明るく素直に育ったヒムカも心の奥底にはそんな影が潜んでいた。
あれからムラクモとクサナギの親子がヒムカを連れて、ホデリ族の邑に帰り着いたのは数日後のことだった。
戦の爪痕はひどく、美しかったワダツミ国は、ハヤト族の兵士に踏みにじられてしまった。ことにクシナダ族の都はあとかたもなく破壊され、強奪されつくし、八年たった今でも廃墟のままになっている。
ワダツミ国の王の座についたハヤト族のハマクグは、前王のもとで宰相を務めたカガシラの弟である。カガシラは、王とともに人々の尊敬と敬愛をうけた人物で、前王が病で亡くなったとき、次の王に選ばれたのだが、即位式の前日急死してしまった。
その死については、実弟のハマクグのしわざとの噂があり、打ちひしがれている国民の弱みにつけこみ、隣国フサヤガの兵力を借りての卑怯な不意打ちで王位を簒奪したため、その噂はいっそう真実みを増した。
しかも、その裏では、邪悪なホオリ族が暗躍していたのだ。ムラクモやイスルギ、クサナギなど、優れたホデリ族の賢者たちでも、戦陣を組む時間すらなく、宮廷にいた者たちを逃すだけで精一杯だった。
ワダツミの政治は立憲君主制で、王位こそクシナダ、ハヤトの二部族が継承することに決まっているが、ほかにトヨ(途与)・マツラ(沫羅)・イヨ(伊豫)・ヘグリ(幣具理)の四部族が加わった六部族の代表が議会をもっており、その合議で政を行なっている。王直属の機関として、神事を行う方技官がもうけられており、これはホデリ族の世襲となっている。
ところが、ハマクグはすべてを退け、独裁政治をはじめてしまったのだ。ハヤト族だけが優遇され、他の部族は奴隷のような境遇になり、特にクシナダ族は、とらえられては死罪にされるという恐ろしい状況にあった。
他の部族の邑に紛れ込んでも、探し出されて処刑されるのだ。命からがらホデリ族の邑に逃れた者だけが助かった。
今、ワダツミ国はもはやホデリ族の邑だけが平和で安全な場所だった。
クサナギは初陣の苦い経験から邑に戻ると一心不乱に修行に励み、同期の者たちをはるかにしのいで、通常なら三十才くらいで授かるはずの賢者の位、「賢子」を十七才という異例の早さで手に入れた。
それほど、クサナギの修行はすさまじいものだった。剣の師匠である父ムラクモでさえ、その気にしばしば押されるほど、鬼気迫るものがあった。
そして、苦手な精神修養も、師のイスルギが別人のようだと舌をまくほどの進歩を見せた。そのため、賢者の長老たちは一致してクサナギの「賢子」昇格を認めたのだった。
ちなみに賢者には、賢子・老君・仙師・聖父・霊宝・天尊・太上という順位がある。
父ムラクモは、クサナギが賢子になったのと同時に、それまでの老君から仙師に昇格し、族長になった。また師イスルギは、聖父に昇格し、族長の座を退くと隠棲した。
聖父以上になると、森の奥の聖地に隠棲するのが習わしで、年に一度の祭礼の時しか姿を現すことがない。
宮廷の奥の神殿で暮らし、王族としか接しない方技に比べれば、賢者の行動ははるかに自由で、常にクシナダ族やハヤト族などほかの部族との交友を持っている。しかし、その修行は方技の比ではなかった。
ホデリ族の子供たちは、生まれた時から修練所で育てられる。修練所とは精神修養のための寄宿学校のようなものであり、子供たちは、そこで賢者たちの世話によって、団体生活を送るのだ。そして個々の能力によって、方技(占星術・占風術・望気術を司る)官になり、宮廷で暮らすことになる。加えて霊力の優れた者は神殿に上がり、神官・大神官となる。
また、それらの力がもっと強い子供たちは邑に残って賢者としての修行をするのだ。だいたいその能力の差は、早い子供では六歳くらいで出てくるので、そうすると、賢者の才を持った子供には、特別の訓練が待っていた。
賢者は、精神修養のあと、鍛錬所で方術や武術の修行をする。鍛錬所はいわば稽古場で、早くから賢者の才を発揮した子供は、ほかの子供が午前中に修養を終え、あとは自由な遊びの時間になっても、大人に交じって訓練しなければならなかった。これは幼い子供にとっては結構つらいものだった。
クサナギも、五歳頃から賢者の才を発揮していたので、一日中行動が拘束されていた。しかし、彼は非常に元気でいたずらだったので、精神修養をさぼっては罰をうけていたのだった。
両者の能力に基本的な違いはないが、方技が静であるとすれば、賢者のそれは動だといえる。
方技は自然界の気を読み、星の位置や風の流れで事の吉凶を占い、未来の予測や予言を行い(占星術・占風術)、人の気をみて病を治す(望気術)といった能力だ。それは決して自然の流れに逆らうものではない。