綿津見國奇譚
二、リュウノオ(竜の尾)
次の朝早く、ユズリハは薬草を採りに出かけた。リュウノオというその薬草は、森の聖地の北側にある、山まで行かなければならなかったからだ。夕べのうちに族長の許可をもらい、クサナギに案内を頼んだ。
十一年前の戦以来、ホデリ族は賢者も方技もみな一緒に暮らしており、宮廷住まいだったユズリハも、邑での生活にすっかり慣れてはいたが、この森に近づくのは初めてだった。
「この奥だよね。泉は」
ちゃっかりくっついてきたヒムカは、そう言うと、ずんずん先を歩きだした。
「ああ、おまえがいじけて逃げ込んだところだ」
「クサナギの意地悪!」
ヒムカはかけだした。
「こら、ヒムカ。むやみに行っても迷うだけだぞ」
「べーだ」
振り向いてあかんべーをすると、ヒムカはまた走り出した。しかし後も見ずやみくもに突っ走ったため、何かにけつまずいた。
「痛い! 誰じゃ、わしの顔を踏んづけたのは」
「わあ、おばけ!」
ヒムカはびっくりしてしりもちをついた。イスルギがいつかのようにそこにいたのだ。
「お、お化けとはなんじゃ。賢者に向かって……。と、おまえは人間。ほう勇者じゃな」
イスルギはヒムカをまじまじと見つめて言った。
「クサナギの育てたヒムカか。まったくよく似たもんじゃ。わしの顔をふんづけるとは……」
「ごめんなさい。でも、クサナギもふんづけたの?」
「さよう。以前おまえがここに迷い込んだ時じゃ」
「ふうん。でもこんな地べたで寝ていたらわかんないよ、普通」
「まあな。じゃがここは賢者の森、人は入りこめんところじゃからな。それにここではみな木に同化したり風になったりしてな、ゆったりと暮らしておるんじゃ」
「へええ、同化するの? どうかしてるね」
「こら、へんな洒落をいうでない。ほんとにおまえは子供の頃のクサナギのようじゃ」
「そうなの? クサナギもいたずらした?」
「ああ、力を悪用してな。むろん、うんと小さい時じゃったからたわいもないことだったが、力を取り上げて仕置きしたこともある。いろいろあったが、正しい力の使い方は、あれが一番身にしみてわかったんじゃないかの」
「ふうん」
そこへクサナギとユズリハがやってきた。
「これは、イスルギさま。お久しぶりです。ヒムカが何か?」
「おうおう、したとも。わしの顔を踏んづけおった」
「ええ、なんてことを。ヒムカ」
「クサナギだって踏んづけたって、今話を聞いたよ」
クサナギは二の句が継げなかった。くすくす笑いながら、ユズリハがイスルギにあいさつした。
「お久しゅうございます。先生」
「おお、ユズリハか。修練所で講義した時以来じゃの。大きゅうなった。で、おまえも両親のあとを継いだか」
「はい。先年、正式に方技官の薬師の資格を頂きました」
「そうか。宮廷があれば、おまえも今頃は王室付きの薬師であったものを」
「はい。でも、今の生活は気に入っています。食事の支度もお掃除も畑仕事もみんなでやるんです。クシナダ族の人たちも一緒に。だから楽しくて……」
「そうか、まあ、それもよかろう」
イスルギは白いヒゲをなでながら、うんうんとうなずいた。クサナギは、
「わたしたち賢者は、子供の時は不自由ですが、大人になると自由です。でも方技官は逆でしたからね」
と、ユズリハの方を見た。
「ええ、わたしは八歳で宮廷に呼ばれて、ずっと薬草を扱うことだけを仕込まれました。身の回りのことはみんな係りの人がやってくれるんです。慣れるまでは修練所がなつかしくて……」
「クサナギはちがったな。修練所を抜け出してばかりいた。いつぞやは……」
イスルギが冷やかすと、クサナギは困った顔をして、あわてて話を遮った。
「師匠。そのことはもう……」
そんなクサナギの顔を見て、ヒムカはおもしろがって聞き耳を立てていたが、
「そうじゃ、昔話で足を止めてはいかんな」
と、イスルギが話をやめたので、つい口をはさんだ。
「えー、聞きたいよ。教えて、もと族長」
「いいから行くんだ。ヒムカ」
クサナギはヒムカの手をつかんで、さっさと歩き出した。後ろからイスルギが叫んだ。
「クサナギ、リュウノオは山の中腹にあるぞ」
リュウノオは万能薬で、それも賢者でさえ手の施しようのない怪我や病の時につかうのだ。この薬草は太古の七聖人の一人、アケボノが九百年の生涯を終えて地に帰った時、その地面から生えたといういわれがあった。
三人は美しい花の咲く平原にでた。小川のせせらぎや小鳥の声に耳を傾けていると、心が洗われるような気分になった。その平原をなおも進むと、目の前に霧に包まれたひときわ高い山が現れた。山に入ると、空気はますます清涼になり、高潔な雰囲気が漂ってきた。
「今通った平原はマホロバさま、あの山はタカチホさま、霧はシロタエさまが変化したと言われてるんだ」
「アケボノさんて九百年も生きたの? ほかの人たちも?」
「ああ、大昔ホデリ族だけが地上にいた時は長命だったんだ。人間が生まれるようになってからだんだん短くなった。もう今は三百年くらいかな」
「でも、クサナギはそんなに生きられるんならいいよ。ぼくたち人間はせいぜい百年なんだから……」
「いや、わたしは……人間と同じくらいかな……」
「え?」
クサナギの言葉にヒムカは耳を疑った。けれどクサナギはそのまま押し黙ってしまった。
「クサナギのお母さまは……普通の人間なの。あなたのお母さまの叔母さま……。でも、クサナギを産んで亡くなったの……」
ユズリハはそっとヒムカに耳打ちした。初めて聞くクサナギの生い立ちに、ヒムカは驚いた。
普通、ホデリ族の、しかも賢者の男性と人間の女性との結婚はまずありえなかった。もちろん結婚を制限したり禁止したりする掟などはない。だが、賢者は気が強すぎるので相手が人間の女性の場合、子供を産むことに危険が伴う。もし子供が気をもたず人間で生まれてくれば母親の命は助かるが、それは賭けのようなものだった。
クサナギの母タキリ(多紀理)媛は、クシナダ族の前王の妹で、ヒムカの母スセリ媛の叔母にあたる。ムラクモとタキリ媛の結婚はホデリ族始まって以来の希有な出来事であり、周囲は当然出産を危惧した。けれどタキリ媛は、命と引き替えに産むことを選んだのだった。
ヒムカは自分の母のことを思った。そして、クサナギが幼い自分を全身全霊でかわいがり、育ててくれたわけを理解した。ヒムカは胸にこみ上げてくる思いをおさえきれず、クサナギに抱きついた。
「クサナギ」
「おいおい。ヒムカ」
それはヒムカの精一杯の感謝の表現だった。クサナギは、やさしくヒムカのくせっ毛をなでた。
それから三人は黙って歩いたが、しばらくしてヒムカが口を開いた。
「なんかすごいね。空気が」
「大丈夫か? 人間には堪えるだろう。この気は」
「うん、すごすぎて圧倒されそうだ」
ヒムカは声を震わせ、クサナギの上着をつかんだ。
「わたしも……。これほどの気は生まれて初めてです。まるで神さまの世界に入り込んだみたい」
ユズリハも心なしか声が震えている。クサナギ自身、この地に足を踏み入れてからいつかアカツキにあった時のような、いや、それ以上の神々しさを感じていた。