綿津見國奇譚
四、邪悪な者たち
ワダツミ国は表面上は平和だった。ハヤト族の族長ハマクグがその実権を握ると、隣国のフサヤガ王国と友好を結び、交易を活発にして、さまざまな物資がワダツミ国へと入ってきた。今、ハヤト族の都は満開の花の盛りのようににぎわっていた。
しかし、一方では大多数の人民が圧政に苦しみ、貧困にあえいでいた。
そんななか勇者が出現したことは、毎日宴を開いて贅沢三昧で暮らしているハマクグの耳にも届いた。
「ふむ。子供が二人か。早くとらえてわしの元に連れてこい」
「はい、どうもトヨ族の邑にはいったようです。早速追っ手を向かわせました」
将軍マタタビ(木天蓼)の言葉に、ハマクグはほくそ笑んだ。早いうちに勇者を自分の元に取り込めば、ワダツミ国を完全に自分のものにできるからだった。ところがそれもつかの間、側近のコジャノメ(小蛇目)からの報告を受け、ハマクグは激怒した。
「なに、サクヤ媛が逃げたと?」
「はい、ベニヒカゲさまはたいそうお怒りで、乳母のシノノメを処罰致しました」
「当たり前だ! ベニヒカゲめ、なんたる失態だ」
そこへ、ベニヒカゲがやってきた。ベニヒカゲは宮廷で神官の役をしていた。ハマクグが王室の実権を握って以来、ホデリ族の神官は遠ざけられたため、神事が滞っていた。ワダツミ国の政は、神事と密接に関係している。クシナダ族が支配していたときは、ホデリ族の神官が、自然の気を読んで王に伝え、王はそれを政に反映させていた。それで善政がしかれ、国が安泰していたのだ。
だから独裁者のハマクグが、どんなに思い通りにしようとしても、自然の気とそぐわなければ事は進まないため、ベニヒカゲにその任を託した。
これはハマクグにとっては都合が良かった。ベニヒカゲが気をゆがめるので、好きなことができるのだ。けれど、そのとばっちりで突然日照りが起ったり、真夏に雪が降ったりするという弊害が起きるので、国民、特に農民は苦しめられていた。
ベニヒカゲは、コジャノメの方を見下したようにちらっと見ると、玉座にふんぞり返っているハマクグに一礼して言った。
「ご心配には及びません。しょせんは子供。あちこちにわたしの配下の者が目を光らせております。すぐに連れ戻しましょう」
ベニヒカゲの、自信にあふれた態度に圧倒されて、ハマクグは怒りを忘れてしまった。
「そ、そうか。まあ、サクヤ媛のことは、おまえに任せたのだからな」
「それに、わたくしとてホオリ族のはしくれ、あんな子供、洗脳するのはわけもないこと」
「そうだな」
ハマクグが納得しかけたとき、コジャノメが言った。
「しかし、それならサクヤ媛はなんで逃げたのでしょう」
「なんですって!」
ベニヒカゲは、コジャノメをにらみつけた。殺気を感じるほどの剣幕に、コジャノメはすごすごと退出していった。
コジャノメもホオリ族の一人だ。だが、力が微弱なため、力のあるものにこびへつらって世渡りする小者で、日頃ベニヒカゲは、いちいち仲間の失敗を告げ口するコジャノメを軽蔑し、疎ましく思っていた。
ハマクグはやれやれといった表情で、ベニヒカゲの機嫌を取るように言った。
「ま、まあ、連れ戻しさえすればいいこと。たしかシタダミも印を持っておったな」
「とすると、わたしの部下が追った二人と会わせると、四人の勇者が集まるわけですな」
将軍のマタタビが相づちを打った。そして三人は互いに顔を見合わせ、うなずき合った。ベニヒカゲは機嫌を直すと、今度はさも得意そうに言った。
「それだけではありません。実はこちらへ向かっている勇者の気をわたくしはとらえましたの。ハヤト族の少年ですわ。数日中にやってきます。ですから、わたくしは一旦ホオリ族の邑に帰ります」
サクヤとシタダミを逃がしたシノノメは、ベニヒカゲにそれを知られ、洞窟の中に生き埋めにされてしまっていた。
しかし、シノノメは力を振り絞って祈り、気を外へ放出していた。それは、子供たちの旅を安全に守るため、また、はるか遠くのホデリ族に知らせるためでもあった。
「わたしの気を感じてくださる方がいますように。勇者が旅立ったのです。ホデリ族のどなたか……」
すでに一ヶ月が経とうとしており、もう体力も限界だった。けれどシノノメは、もてる限りの力を出していた。
「シノノメや……」
暗闇の中にとつぜん声が響いた。その声の方を見ると、ぼうっとした光が差し込んで、それはやがて人型になった。
「ツヅレ婆さま!」
シノノメはなつかしそうに叫んだ。
「わたしの気を感じてくださったのですね。ありがとうございます」
張りつめていた気持ちがゆるんだのか、シノノメは泣き崩れた。
「泣くでない。ようがんばったの。わたしにしか感じぬほどの弱い気じゃった。地上の気はゆがんでおるし、こんな地の底ではしかたない」
それはツヅレ婆の幻影だった。シノノメのかすかな気を感じたツヅレ婆は、自分の幻影をシノノメの前に投じたのだった。
「よしよし、おまえもわたしのかわいい弟子じゃ。こんなところでのたれ死にさせはせん。じゃが、もう少しここで辛抱せよ」
「はい」
「いや、しばしの間眠るのじゃ。あの厚化粧の年増女……ベニヒカゲとかゆうたな、あれは当分ここに来ることはない。そう、戦いの日までな。旅の二人のことは、わたしにまかせるがいい」
シノノメの体はツヅレ婆の気に包まれ、静かに眠りについた。