綿津見國奇譚
三、ニシキギ(錦木)
しかし、まだここに、自分が勇者だということを知らない少年がいた。ハヤト族の山奥の里に生まれた猟師の子で名をニシキギという。小麦色の肌と赤みがかった髪は生粋のハヤト族の証しで、顔のそばかすが太陽をいっぱいに浴びて育ったことを物語っていた。
骨太の、がっしりした体格だが身は軽く、木から木へムササビのように飛び移った。そして鹿よりも軽やかに、野山を駆け回ることができた。
また、ニシキギには、植物の気を読みとる力があった。初めて入った場所でも、薬草や山菜がどこにあるかすぐにわかるし、繁みに隠れた獲物を、植物の気を読んで探し出しては父に教えた。
父親は、ニシキギが一緒だと猟がうまくいくといって喜んだが、ただ勘がいいとしか思っておらず、当のニシキギも、備わった力を、特別なことだとは思っていなかった。
実際、ニシキギの誕生には、とりたてて変わったことはなく、普通に母親の胎にはいり、月が満ちて生まれた。ただ、よく眠る赤ん坊だったことを除けば……。
「おーい、ニシキギ!」
友だちのカササギ(鵲)が呼ぶ。しかし、返事がない。今日も薬草とりに山へ入り、カササギと競争していたのだが、いつの間にか、ニシキギの姿が消えてしまったのだ。
「ちぇ、あいつ。また自分だけいい場所みつけたな」
カササギは舌打ちした。ところが土手を降りると、沢のそばにニシキギがいるのに気がついた。近づいてみると、籠は空っぽのままで、当のニシキギは昼寝の最中だった。
「ニシキギ! 起きろ」
「ん?……ううん」
ニシキギは、ざんばら髪を両手でくしゃくしゃにかきながら起きあがった。
「まったく、おまえときたら、暇さえあればどこでも寝ちまうんだから。薬草はどうした」
「あ、そうだ。いい天気だったから、つい……」
「ふん、昼までに、籠いっぱいってのが約束だからな。今日こそはおれの勝ちだぞ」
カササギは、ほとんどいっぱいになった籠をみせて、得意そうに鼻をふくらませた。日は高く、まもなく昼になる時分だ。
「ふん、そんなのちょろいね。まだ勝負はこれからだ」
ニシキギは、軽々と石をはねて小川を飛び越すと、反対の岸辺にわたり、藪の中にきえていった。二人は仲が良く、互いに十五になったら兵士に志願しようと約束していた。
「ちきしょう。結局おれの負けか」
カササギはくやしがった。ニシキギが籠に入りきらないほど、たくさんの薬草を抱えて戻ってきたからだ。
「ほんとに、こればかりはおまえにはかなわないよ」
カササギは、なかばあきれ顔で言うしかなかった。
「でも……」
と、もってきた木刀をいきなりかまえて叫んだ。
「こっちは負けないぞ!」
すかさずニシキギも木刀をかまえて応戦した。
薬草とりの仕事が終わると、こうして二人は剣の練習をするのが日課だった。カササギも筋肉質の体格だが、背はニシキギより高い。けれど力はほぼ互角だ。身軽で小回りのきくニシキギに対し、カササギは、落ちついた隙のない構えで対抗していた。どちらも負けず嫌い、必ず、自分が一度勝つまでやめなかったので、時には日が暮れてしまうこともあった。
「やっぱり、ハマクグさまの親衛隊だよな」
山を下りる道すがら、カササギが言った。ニシキギは間髪を入れず答えた。
「もちろん。今をときめく御上だもんな。やっぱり男は剣の腕で上にたたなきゃ、な! カササギ」
「おうよ。今じゃ、フサヤガ国のホウジャク王もハマクグさまに一目おいてるとか。クシナダ族みたいななまくらじゃあ、大国にはなれないよな」
「おれ、ハヤト族に生まれてよかったよ。他の部族だったら惨めな生活だもんな」
「そうだ、そうだ」
二人は今十一才。八年前わずか三才だった二人には、ハマクグがワダツミ国を簒奪した事実を知るよしもない。今はハヤト族の天下なのだ。武勇にこそ誉れがあると教えられ、育てられた二人には当然のことだった。
しかし、これほど仲の良い二人が、後に壮絶な闘いをするとは、この時誰が知り得ただろうか。それは、もう少し年月がたってからのことだが……。
「ところで知ってるか? ニシキギ。ホオリ族が普通の人間にも術を教えてくれるって」
「え? でも術って、力がなきゃ……」
「それが人間でもできる術があるんだって。幻術っていってな。まあ手品のちょっとパワーアップしたようなやつさ。もちろんホオリ族で修行して、気を分けてもらうんだけど」
「へえ」
「実はさ、父ちゃんと都に行ったとき、都の人から聞いたんだ。剣のほかに、その幻術もできると、宮廷に召しかかえてもらえるんだって。だからさ、おまえも行かないか?」
「いいなあ、それ。行く! 絶対行く!」
「女傀儡師のベニヒカゲさまって人が、弟子を集めてるんだって。術を覚えるには若い方がいいらしいよ」
ニシキギは目を輝かせてつぶやいた。
「幻術かあ。いいよなあ、おれにもできるといいな」
「ああ、ホデリ族が正統とかなんとか聞いたけど、あんな奴ら、東の果ての方でこそこそ暮らしてるんだろ。すましてたって宮廷からお呼びがかからないんじゃな。やっぱりホオリ族だよ」
ホオリ族のことを熱っぽく語るカササギにつられて、ニシキギは大きくうなずいた。
ニシキギが、カササギとともにホオリ族の邑を目指して家を出たのは、それからまもなくのことだった。