GOLDEN BOY
「何言ってんすか。余裕っすよ」
海老の尻尾を食べるのは、母親と同じだ。彼女と付き合うようになってから、僕もそうするようになったのをトムヤムクンを啜る彼を見て思い出した。僕の知らない彼の子供時代は、一体どんな風だったのかな。おはようございます! リュウセイです! 好きなスポーツはサッカーで好きなアニメはナルトです! よろしくおねがいします! ニコッ。昼間撮影した子役達とイメージを重ねようとしたけれど、その試みは失敗に終わった。彼はいつも自然体で、大人には媚びない。
「うまいっすね、これ」微笑みの国から来たウェイトレスに親指を立て、さり気なく彼が言う。「この前おじさんと会ったこと、母親に言ったんですよ」
「え? で、どうだった?」
僕の全身は巨大な耳になって、彼の発する音波を待つ。
「想像付きます?」
「どうだろう、分かんない。俺のこと何か言ってた?」
急激に舌が渇いた僕は、シンハビールを口に含んだ。もしその液体が誰かの小便と摺り替えられていても、僕は全く気付かないだろう。
「何も」
「ふうん、そっか」
落胆に萎んでいく心を悟られないように、僕は無意味にメニューを開いた。ガイ・パ・サッパルッ、ガイ・パッ・メッ・マモワン、トート・マンプラー、意味不明の片仮名を、視線が上滑りする。
「って言うか」
僕はまた耳になり、彼の話を聞いた。
「滅茶苦茶怒られましたよ。初めてっすよ、あの人があんなに怒ったの」
「へー、なんでかな」
堪らなくなって目を逸らした。周りの音が一気に遠くなる。部外者。邪魔者。偽善者。疫病神。そんな言葉が鉛の3Dフォントになって胃袋に溜っていく。やはり僕は、彼に関わるべきではなかったのかも知れない。
「何でですかね。殴られそうになりましたよ。余裕で避けましたけど。恐かったっすよこんな顔して」彼は大袈裟に眉間に皺を寄せ犬歯を剥き出しにした。「リュウちゃんに迷惑かけたらぶっ殺すぞって」
額を撃ち抜かれたように思考が空白になり、その後すぐに鼻の奥がツンとなった。僕は都合良く手に持っていたメニューで顔を隠し、声が震えないぎりぎりの発音で「そっか」と答えながら、必死で涙を堪えた。無理に両目を開いて水分を乾かしてから、僕は言った。
「伝えといてよ、迷惑でもなんでもないって。自分で言うのも情けないけど、隠し子がいてやばくなるような成功者の人生送れなかったからって」
「何言ってんすか。送れなかった、ってまだこれからじゃないっすか」
「見た目が若いっていう意味で言ってくれてるんだったらありがとう」僕はボーダーの長袖Tシャツを摘んで自虐的に笑った。「でも龍成のお母さんがそうなのと同じように俺ももうちょっとで四十だよ。しかもフリーって言えば聞こえはいいかもしんないけど簡単に言ったらプータロー。いい時期なんて始まったと思ったらすぐに終わって今や思いっきり失業の危機に直面中だよ」
「大丈夫っすよ」龍成の瞳が僕を診察するように覗き込む。「おじさんまともじゃないっすか。何とかなりますって」
「そんなことないよ」妙に力が入った声に自分でも驚いた。「今度会ったら絶対言おうと思ってたんだけどさ、やっぱ仕事は何より安定だよ。何年も放ったらかしにしててこんなこと言うのもなんだけど、龍成もなるべくしっかりしたでかい会社に入った方がいいよ。公務員でもいいし。まだ若いんだから努力さえすればそんなに難しくないと思うよ。説教臭くて悪いけど、もし昔の自分に会えるんならそう教えてやろうってここ最近ずっと思ってたからさ。俺と同じ失敗はして欲しくないんだ。俺いま、本当にお先真っ暗の負け組だからさ。フリーになって失敗した。これからはちゃんとした会社の正社員か公務員の時代だよ」
鼻息荒く一気に言い終えた僕はいくらかすっきりとして、直後にとても恥ずかしくなった。酒の力を補充しようとウェイトレスに手を上げる。
「は? おじさん何言ってんすか。俺朝鮮人っすよ」
やっと気付いたウェイトレスが、にっこりと微笑んで近付いて来る。
「ん?」大事な事を聞き逃した気がして、僕は訪ねる。「今、何て言ったの?」
「俺」親指を自分の鼻先に向けて、龍成ははっきりと言った。
「朝鮮人っすよ。両親共、家族全員。つまり、俺、在日四世」
11
十六年前に迂闊にも見落としてきたことが、今になって僕の脳味噌の中に猛然とヘッドスライディングして来た。彼女――安田みゆきは、ちゃんとその言葉の意味を知った上で、僕と駆け落ちしようと言っていたのだ。
さんのすけさんとこの息子。
田舎では近所の年寄り達から、そう呼ばれていた。僕の父親の名前はさんのすけではないし、若くして戦争に行ってパプアニューギニアで死んだ祖父も、さんのすけではない。弱そうなその名前は屋号で、きっとあの土地に最初に家を建てた僕の祖先がさんのすけだったからそう付けられたのだろう。昭和の終わりになってまで時代錯誤の屋号で呼ばれていたのには、理由があった。僕の実家のご近所さんは、そのほとんどが山畑姓だったからだ。ごんぞうさんのとこもでんじろうさんのとこもみんな山畑にするらしいから、うちも山畑でいいや。たぶんそんな感じでいい加減に決まったに違いない名字。山畑だらけのその土地で、僕は十八年間育った。さんのすけの子孫である僕は、一族の歴史の中で初めて東京の大学に行き、二年後にみゆきと出会い、その二年半後に別れた。田舎者の僕は、何も知らなかった。在日差別なんて、どこか遠い国の、例えばアパルトヘイトやパレスチナ問題やアフガニスタンの内戦問題みたいに、自分とは直接関係のない世界の話だと思っていた。映像業界に入ってからは、民族名のまま仕事をしているフリースタッフとも現場を共にしたし、在日朝鮮人であることを公言しているタレントを撮影したりもして、一気にその存在が身近になった。映像業界、芸能界は、民族差別の垣根が低い世界なのかも知れない。彼らには被差別者としての影をあまり感じられなかったし、僕の方も特別にそれを意識することはなかった。いい画を撮ればいいカメラマンだし、短時間で女優を奇麗に仕上げればいいヘアメイクだ。在日でも外人でも実は宇宙人でも、技術や才能があれば、関係ないと思っていた。なのに僕は、ショックを隠す事が出来ないでいる。
写真映りが悪いからと、免許証を見せてくれなかった。オリンピックが嫌いだと言った。家族の話をほとんどしなかった。面倒だからと言って選挙にはついて来なかった。駆け落ちしたいと言った。
サインはいくつもあったのに、さんのすけの暢気なDNAは、それに気付かなかった。
「おじさん、本気で知らなかったんですか?」
龍成は呆れたとばかりに椅子にもたれた。
「まあ知らなくても不思議じゃないけど。でも何かおじさんにだったら言ってる気がしてたんですけどね。引いちゃいました? 言わなきゃよかったっすかね」
心配そうに彼の眉根が上がる。
「いや……聞けてよかった」僕は出来る限り正直に答えることにした。「でもちょっとだけびっくりした」
作品名:GOLDEN BOY 作家名:新宿鮭