GOLDEN BOY
天下の魔都新宿も青梅街道の大ガードを超えると少しずつ人が少なくなっていく。振り返ればいかがわしくも美しい街灯りが視界いっぱいに広がっているが、目の前の高層ビルはその巨体を器用に静止させたまま深い眠りに落ちている。
彼に嫌われただろうか。
そう考えながら、僕は西新宿の部屋に向かって歩いている。
みゆきが在日だったと知ってから、僕の態度は不自然になっていなかっただろうか。変に気を使って、龍成との間に壁を作ってしまってはいなかったか。
左の靴紐がほどけている。気付いているのに、直す気力がない。
「また知らない国のメシ食わせてくださいよ。俺、めちゃくちゃ食っちゃうから破産しない程度に」
龍成はそう言って無邪気に笑ったけれど、あれは本心だろうか。彼はまた、僕に会ってくれるだろうか。
足元がふっと明るくなり顔を上げると、いつものコンビニの前まで来ていた。僕は吸い込まれるように店内に入り、飲みたくもない水を買った。レジにいたのはシンさんではなく、やる気のなさそうなフリーター風の男だ。名札には、山田と書いてある。ある意味合理的な彼は、レジ袋やレシートの要不要を訊ねることをせず、僕は無言のまま店を出た。
エレベーターの中で冷えた水を飲む。
龍成は自分を朝鮮人だと言った。
もしあの時。十六年前、みゆきと結婚していたら、龍成は日本人になっていた。
そんなことを考えている僕は、ひどく無責任な気がした。
12
二日後の午後から、編集作業が始まった。アビッドと呼ばれるPCベースの編集ソフトで、本編集前の仮つなぎをするオフライン編集だ。予算規模が小さい為、僕の希望するフリーのエディターはスタッフィング出来ず、制作会社の社内スタッフが担当することになった。予想はしていたけれど、エディターの世界も、フリーランスにとっては大変な時代になっているようだ。
僕より八歳若いエディターとは、不思議と馬が合った。この世代の特徴だろうか。見た目も性格も大人しく中性的な彼は、僕の曖昧な指示に柔らかく頷き、淡々と作業を進めて行った。左耳にピアスが三つ。僕が若い頃はパンクスの専売特許だったものが、今ではごく普通のファッションアイテムになっている。僕と龍成の、間の世代だ。
「やっぱこっちの方がいいですね」
カメラ目線とドキュメンタリー風、二つの編集違いをざっと組んだ後、彼は後者を指して言った。
「まあ、どうせカメラ目線の方が選ばれるんだろうけどね」僕は半ば卑屈に笑って首の関節を鳴らした。「無駄な抵抗なのかな」
「どうですかね。僕、このクライアントのCMけっこうやらされてますけど選択肢作って観てもらっても大体いい方は選ばれないですね」
「また正直に言ってくれるなあ」
落胆を悟られないように背伸びをした。冷めたコーヒーと灰皿の上の吸殻。お菓子の紙皿の上に、必ずあるカントリーマーム。不安はいくつかあるけれど、編集は嫌いじゃない。
代理店のチェックが入る十九時より一時間も早く編集が終わった。終わったと言っても、僕の作業が終わっただけで、よほどの大御所でもない限りは、ディレクターに決定権はない。僕の作った物を、代理店が弄りクライアントの担当者が弄り、時にそれはクライアントの部長や社長や会長の好みで、原型を留めないまでに破壊される。人の金で映像を作っているのだから当然の事なのだけれど、クライアントの言う事を聞き過ぎて駄作を量産すれば、確実にディレクターの仕事は減っていく。その結果が、今の僕だ。
「いやあ、いいですねどっちも。……後は、そうだな、この中間ってないですかね」
このプロジェクトの最高責任者であるクリエイティブディレクターはそう言って、好意的な笑みを口元に浮かべながら、平常時と変わらない目で僕を見た。彼の周りを取り囲むようにソファーに座っている四人のプランナー達が、なるほどそう来たかと頷き、その内の一人が「もう一回観ていいですか」とモニターに向かって背を伸ばす。
あるわけねえだろ。馬鹿じゃねえの? そんなのまるで平日の昼間にやってる生コマーシャル風通販CMじゃないか。最近お腹が出てきちゃって。あらやだ、運動が足りてないんじゃないですか? そうなんですよ、最近はどこへ行くにも車ばかりで。いけませんねえ、でもそんな貴方にぴったりの商品が今回ご紹介するコレです。ん? いったい何ですか、コレ。ってそこでいきなりカメラ目線。そんな類いのチラシCMとたいして変わらないじゃないか。
「うーん、やっぱり間も観てみたいな」
編集卓からは禿げかかった後ろ頭しか見えないけれど、クリエイティブディレクターの自分に酔ったような顔がリアルにイメージ出来る。
「どうですかね、監督」
左右に座った取り巻きが二人、内向きに振り返って僕を見る。〈どうですかね〉はこの場合、〈やってください〉の意味だ。悟られないほどの密やかな溜息を細長く吐く。横からの視線に振り向くと、若いエディターが無言で指示を待っている。僕が眉根を上げて曖昧に首を傾げると、彼はその仕草を〈仕方ないからやろうか〉と解釈したのか、セレクターのマトリクスを変え編集画面が試写用のモニターに出力されないようにすると、エディターらしい華奢な指先で軽快にキーを叩きだした。僕は成す術なく、煙草に火を点ける。その毒を半分も吸わない内に、エディターは「こういう事っすかね」と小声で言いながら、編集用モニターのボリュームをぎりぎりに絞った。何かの事情があったとしか思えない不思議なCMが、僕にだけプレビューされる。
酷い。これは許容範囲だろうか。頭の中で失業の不安と演出家のプライドが、高速でシーソー運動をし始める。エディターが横目で、僕の反応を見ている。
僕は立ち上がり、息を吸った。
「あり得ないと思います」
言った瞬間、不思議な事に、さっきまで感じていたプレッシャーから一気に解放された。妙な空気。僕がこの場を支配している感覚さえある。
「元々言われていた通りのものは作りましたよね。ドキュメンタリーの被写体がいきなりカメラの方を向いて台詞喋ったら、誰かに言わされてるようにしか見えませんよ」
「なるほど」クリエイティブディレクターが顎を撫でる。「で、後は商品の所のタイトルの出かたと大きさなんですけどね」
「はい」
僕は半ば呆れながら、僕は彼の言う通りにタイトルを修正した。何で今まで長い間気が付かなかったのだろう。大事な所は守って、どうでもいい所を譲ればいい。
彼らはただ、立場上何かを言いたいだけなのだ。
13
インターネットを少し覗いただけで、在日朝鮮・韓国人がどれほど嫌われているかが分かる。掲示板サイトには彼らに友好的な意見は殆どなく、たまにあってもすぐに自作自演を疑った攻撃的なレスポンスが付く。少し前の韓流ブームがキー局の仕込んだ偽物の流行だったとしか感じられないほど、そこにはヘイトが氾濫している。日本人としての立場で嫌韓記事を読んでいると、僕だって彼らを嫌いになりそうになる。
うんざりした僕はノートパソコンを閉じて、図書館で借りた本を開いた。机の端に積み上げた五冊の本は、すべて在日朝鮮・韓国人に関する書籍だ。
作品名:GOLDEN BOY 作家名:新宿鮭