GOLDEN BOY
父親は僕がまだ物心つく前に脱サラして、従業員が十五人ほどの縫製工場を経営していた。作っていたのはブラジャーとガードルで、母親も家に工業用ミシンを持ち込んで家事の合間に内職していたから、僕は作りかけのブラジャーに囲まれ、毎日うるさいミシンの音を聞きながら育った。女の下着が恥ずかしいと、つまり家業が恥ずかしいと思うようになったのは小学校の三年生ごろで、チンチンに毛が生え始めた高学年の頃には、僕は家に友達を呼ばなくなっていた。地元の公立中学に入学し、いじめや不良の存在が身近になった時、真っ先に感じたのは、女の下着を作っている家の子だからとからかわれたり殴られたりする事に対する恐怖で、それを振り払うために、いつの間にか僕自身が不良化していった。とは言え、もともと内向的でスポーツも苦手な僕が学年を仕切る不良になんかになれるはずはなく、煙草を喫ったり万引きをしたり明らかに自分より弱い同級生に絡んだりする程度、今思えば赤面ものの気の弱い小悪党だった。
中途半端な丈の短い学生服を着て中途半端に太い学生ズボンを穿き、いつか自分より強い誰かに殴られないかといつも怯えていた僕は、その時二つの事を強く心に決めていた。一つは、高校を出たら故郷を出て都会に行く事。もう一つは人に自慢出来るカッコいい仕事をする事だ。自分には普通じゃない才能があると、何の根拠もなく信じていた。インディーズの日本のパンクロックを聞いて、『宝島』を毎月読んだ。わざと破ったエドウィンのジーパンにラバーソール。そんな少年が日本中の田舎にごろごろいたのに、僕だけが他のくだらない奴らとは違うと思っていた。一秒でも早く、退屈な町から飛び出したかった。中学の延長みたいにつまらない地元の公立高校を卒業して、何とか東京の私立大学に滑り込んだ。
東京。
髪を立てた少年は、原宿の竹下通りにしかいなかった。僕は髪を下ろし、細く剃っていた眉毛を伸ばして、自分でも好きなのか嫌いなのか分からないカジュアルな服を着るようになった。世間はバブル景気に浮かれていて、ブランドもののスーツを着た怪しい大人とその予備軍が六本木ではしゃいでいた。地方出身の貧乏学生にとってバブルは全くの他人事で、僕は下宿先の多摩市にあるカラオケスナックでアルバイトをしながら、ただ悶々としていた。
ギターの弾けない元パンク少年は、東京の大学にも馴染めなかった。同級生達は皆、安定した上場企業に入りたいと言う。でもスナックに飲みに来る上場企業のサラリーマンは一様に疲れていて、帰るまでに必ず一度は「学生はいいなあ」と言った。羨ましがられるほどその頃の僕は幸せじゃなかったし、目の前の上場企業サラリーマンも僕に取って羨ましい存在ではなかった。いい大学を出てそこそこの会社に入り、結婚して子供をつくり、東京の郊外に家を買う。それでもまっすぐに家には帰らず、酒の時間を作ってストレスを吐き出す。そんな大人にはなんの憧れも持てなかった。
CMの制作会社に入った理由は、単に消去法だ。メーカーや金融よりも人間関係のストレスが少なそうなエンターテインメント業界。そこに入りたいと言うよりも、そこならやっていけそうだと思ったから。音楽業界には楽器が出来ないコンプレックスがあった。映画業界は食えないと聞く。出版社に入れるほど読書家ではない。唯一広告業界だけは誰にでも門戸を開いている気がした。けれど、大手の広告代理店に入るコネやアピールポイントは何も持っていない。十社ほど試験を受けて、唯一受かった二流のプロダクションに就職を決めた時、収まる所に収まったと感じた。
入社して暫くは、毎日が徹夜の連続で、一週間アパートに帰れない時もあった。理不尽な理由で先輩やフリースタッフに怒鳴られ、僕以外に五人いた同期社員は、一年以内に全員が辞めた。やりたい事と違っていたと、皆が言った。
つらいことも沢山あったけれど、僕は人に愚痴を言うことはなかった。映像業界の話をすると誰もが興味を示し、僕は自分の仕事のいい所だけを誇張して聞かせた。普通のサラリーマンとは違う。個性的で、将来何か面白い事をやりそうな男。そう人に思われたかった。
雑用ばかりの制作部を三年勤めた後、思い切って転属希望を出し、認められて企画演出部に移った。その二年後には、初めてディレクターを任された。ローカルオンエアーの焼酎のCMだった。手法はドラマ仕立てで、都会から帰ってきた長男が杜氏である父親に弟子入りするその日を描いたものだった。長男なのに家業を無視して都会で暮らす僕がそんな演出をするのは何か皮肉な感じがしたけれど、僕のデビュー作品は国内の大きな広告祭で地方CM賞を取り、僕はそこそこの若手ディレクターになった。会社で受注する仕事の内、表現の幅が広く取れる、ディレクターに取って『おいしい』仕事は、ほとんどが僕に回って来るようになった。自分の仕事量や会社への貢献度と、年収とのギャップに不満を持つまでに、さほど時間はかからなかった。
僕は、調子に乗ったのだ。
もしフリーにならずに、プロダクションに残っていたら。それ以前にもしもっと普通の会社に就職していたら。自分にあった別の可能性について考えながら、久し振りに風呂に湯を溜めて浸かった。のぼせるほどの長湯をしてふらふらで風呂場を出ると、いつの間にか太陽は西に傾き始めていて、外からは子供の声がしている。もし結婚して子供がいたら……、今頃は不安定な仕事に見切りをつけて、必死で仕事を探しているのかも知れない。家族を抱えていたら、この先あるのかどうか確証のない仕事をただじっと待っている余裕など、きっとないだろう。フリーのディレクターになったと事後報告した僕を、親父は真っ赤になって怒り、お袋は毒でも飲んだように蒼白になった。お前は大学まで出てフリーターになるんか。会社に頭下げてもういっぺん社員にしてもらえ。真顔でそう言う親父を笑いながら諭した僕は、やはり間違っていたのだろうか。
床に大の字になってめまいが治まるのを待ち、髭を剃って歯を磨くと夜になっていた。
外出もしないのによそ行きの服を着た。コムデギャルソンのシャツのボタンは、二つ開けにした。髪はわざとセットしないで、無造作なままにした。女の子受けしそうなエレクトロポップを薄く流して、準備完了。と思ったら急に緊張してきて、安定剤代わりにまた煙草を銜えた。
「ひさびさ。元気だった? 俺? まあまあかなー」
発声練習しながらベランダに出て、通りを見下ろす。それっぽい車はまだ停まっていない。
「まあ……、まだか」
呟き終わると同時に、チャイムが鳴った。どきりとして頸を竦め、火も点けていない煙草を慌てて揉み消した。
ひさびさ。ひさびさ。ひさびさ。
顔の筋肉をストレッチしながらドアに近付く。気持ち悪く思われない程度の自然な笑みを浮かべ、気持ち悪く思われない程度の力加減でドアを引いた。
間抜けな笑顔を貼り付けたままの僕の頭に、丸ゴシック体のクエスチョンマークが浮かんだ。
そこに立っていたのが馴染みのデリヘル嬢アイコではなく、背の高い美少年だったからだ。
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作品名:GOLDEN BOY 作家名:新宿鮭