GOLDEN BOY
龍成は自分を、公務員になれない、と言っていた。調べて見ると実際は公権力の行使に関わるもの、例えば外交官や警察官や、政令指定都市と都道府県の管理職以外なら、国籍の制限なく公務員になれると書いてある。彼はそのことを知らないのだろうか。
韓国籍、朝鮮籍を持つ在日コリアンは、約六十万人。二百人に一人の確率だ。特別永住資格を有し、外国人登録証明書を携帯し、通名と民族名の二つの名前を持つ人達。その数は毎年一万人のペースで減少しているらしい。理由は、帰化や日本人との結婚や少子高齢化のせいだ。みゆきはなぜ帰化しなかったのだろう。日本人になる事に抵抗があって帰化しなかったのだとしたら、その理由は何だろう。
1985年の国籍法改正によって、それまでの父系血統主義は廃され、父母両系主義が採用された。その結果、父母のどちらが日本人であっても、在日との間に生まれた子供は日本国籍になり、本人が二十二歳になるまでに、自らの意思で国籍を選択するようになったとある。僕とみゆきが付き合っていたのは九十年代の初めだから、もしあの時二人が結婚していたら、やはり龍成は誰がどう反対しようと、制度上は日本人になっていたはずだ。そして二十二歳になるまでに、自分の意思で国籍を選ぶことが出来た。
向かいのオフィスビルに反射した夕陽が、本を読む僕の足元に伸びている。足の小指の爪がほとんどないのは、父親からの遺伝だ。このDNAは、彼にも受け継がれているだろうか。
オフライン編集を終えたビデオはクライアントの上層部に試写され、僕の気に入っているドキュメンタリータッチの方にほぼ決まりそうだと、プロデューサーから連絡があった。いつも大袈裟な中村さん曰く、これは『奇跡的な事』らしい。上手く行けば、このまま修正なしで本編集に入る。
いい作品を作って、彼に見せたい。
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本編集作業を進めるのと同時に、MAルームでナレーションを録る。
オフラインの役員試写の結果、編集は僕の希望するドキュメンタリータッチのタイプに決まった。デモまで作ってくれた音楽プロダクションには申し訳ないが、今回のCMに音楽は付けない。
本編集やMAになると、いつも決まって複雑な気持ちになる。撮影前にはあったはずの色んな可能性が、どんどん少なくなって、目の前に現実を突きつけられるように感じるからだ。お前の実力は、ここまでだ。まるで自分の作品に、そう言われているみたいに。つまらない企画をここまで持って来られたのは僕だからだと自負すれば、少しは心が安定するけれど、僕以外の人がやっていたらもっと良い物が出来ていたかも知れないと考えてしまうと、逆に一気に胃袋が沈んで行く。結局は自分を信じて完パケを上げ続け、次をまた頑張るしかない。その繰り返し。次があれば、の話だけど。
編集が終わると、夜の十時を回っていた。最後の最後までタイトルの出かたと大きさだけに拘っていた代理店のスタッフが満足顔で出て行き、僕とプロダクションの人間だけが残った。酒でも飲みに行かないかと誘う中村さんが軽い酒乱である事を知っている僕は、ありもしない用事を口実にして編集室を出た。
すし詰めと言うほどではないけれど、この時間の電車は混雑していて、当然ながら席は空いていない。戸袋の脇に寄りかかって、僕は硝子に映る乗客達を見る。
顔 顔 顔顔 顔顔顔 顔 顔顔 顔
大学生 中間管理職のサラリーマン カップル 職場の先輩とその後輩 フリーター 女子高生 売れないミュージシャン
の、ように見える人達。
その誰もが、僕には日本人にしか見えない。
電車は自宅の最寄駅に向かって減速を始め、やがて視界をワイプするように現れたホームの明るさが、硝子に映ったの乗客の顔を消し去った。
不意に震えたポケットから携帯電話を取り出す。
ドアが開いた瞬間、僕は真っ先にホームに飛び出した。留守番電話に切り替わる直前に、通話ボタンを押す。
「はいもしもし」
空いた方の耳の穴を指で塞いで、僕は彼の声を待つ。
「あ、俺っす。龍成っす。今新宿の近くにいるんでこれから行ってもいいっすか?」
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部屋に着いて十分ほど後、龍成は僕の前に現れた。
「すいませんね、ちょうど新宿にいてつい電話しちゃいました。ちょっとしたら帰るんで」
そう言って屈託なく笑いながら、彼はリュックサックを背中から下し、ソファーに腰掛ける。クラッシュ加工がされたジーンズに臙脂色の長袖Tシャツ、その上にスカルのプリントされた白い半袖のTシャツを重ね着している。Tシャツは古着なのかプリント部分が色褪せていて、お世辞にも奇麗な格好とは言えない。なのに手足の長い彼が着ると、一流のスタイリストが選んだような妙に説得力のあるファッションになっていた。
「気にしないでいつでも来ていいし、いつまででもいていいよ。俺もさっき一本仕事が終わって、またしばらくは暇だから」
冷蔵庫の中は見るまでもなく空っぽで、僕はお湯を沸かしてコーヒーを煎れた。煎れながらこの部屋には砂糖もミルクもない事に気付いたけれど、何も聞かない事にした。ブラックのままティーテーブルに置いたマグカップに龍成は躊躇なく口を付けた。その姿に、甘い物が大好きな癖にいつもコーヒーはブラックだったみゆきの姿がダブって見えた。
この部屋に誰かがいることに、二人がけのソファーの隣りに彼が座っていることに、柔らかい幸せを感じる。思い起こすだけで恥ずかしくなるけれど、ここ数年この部屋を訪ねて来たのは、多分デリヘル嬢だけだ。
「今日終わった仕事、まあまあいいのが出来たよ。いや、そうでもないかな。どうだろ、自分でも分かんなくなってる」
「そっすか。俺にも見せてくださいよ」
「オンエアが始まったら、すぐに見せるよ」
パソコンに入っている動画を本当はすぐにでも見せたかった。広告の仕事に関わっている以上、守秘義務を守らなければならないのは当然だけれど、家族やそれに近い存在の人には、みんなこっそり見せて、意見を聞いたりしてるんじゃないだろうか。
家族に近い存在。
彼をそんな風に思っていい権利が、こんな僕にあるのかな。
僕は龍成の顔をちらちらと見ながら、差し障りのない会話を楽しんだ。楽しみながらも、突然ここに来た理由が、別にあるのではないかと疑っている。陽気に笑う龍成が、妙に哀しげに感じるからだ。
「新宿はよく来るの?」
「まあ京王線で一番出やすいっすからね。最近はシネコンも出来たから映画観に来たりとか、よくしますよ」
「映画?」マニアと言うほどではないけれど、それなりに映画おたくの僕は餌を貰った犬みたいに部屋を動き回って、お気に入りのDVDを龍成の前に積み重ねた。
「これとか知ってる? タランティーノがサンダンスかなんかの映画祭で審査員やってる時にメキシコ人が撮った自主映画観てすごいっ、俺が金出すからハリウッドでリメイクしろって言って撮らせた映画。確かパンフレットもあってさあ」
本棚からパンフレットを探し出して振り返った時、僕は龍成の視線の先にあるものに気付いて激しく動揺した。
デスクの上に積み重なったままの、図書館で借りた本。
作品名:GOLDEN BOY 作家名:新宿鮭