こんにちは、エミィです
確かなもの
確かなもの #1
雨が降り始めても、私はその場を動く気にはなれませんでした。
ちょうど四人掛けの椅子は木陰になっていて、ある程度はしのげます。少々肌寒くも思えましたが、こちらの世界は夏のようですし、きっと晴れれば大丈夫でしょう。
カンカンが膝の上に乗ってきました。
心配そうな顔……。
翼をそっと包み込むようにして撫でてやります。彼の熱い体温が、いつもなら汗を誘うほどなのに、何故だかほっとしました。油っぽい艶やかな翼。可哀想に、こちらに来て空気が変わったせいでしょうか、少し痛んでいるみたい。
「ごめんなさい、カンカン。私が不甲斐ないばかりに」
「お嬢さまのせいではありません。従者である、ワタクシの責任でございます。ワタクシが大松さまにお嬢さまのことを任せきりだったばかりに……」
大松さん。
その名前に、私はまぶたを落としました。
彼女が、本当に……?
にわかには信じられない話。
けれども信じたとして、それが何だと言うのでしょう? この手から離れたものは、もう戻ることはないでしょう。
あちらの世界でも同じでした。
貧しい者は富む者から何かを奪って生きていく。私の家だって、富む者と結婚して血縁関係を深めていった。それによって、色々なものを相続した。
おかしな貴族社会だけれど、その地位を羨む者もいる。
しがみつく者もいる。
貴族の立場を失うということは、魔力を持つ者たちとの縁を切るということです。みんな、それだけは避けたいと思っているのです。未来のことが全く分からないままに生きるなど、とても怖くて出来ないと思っているのです。
私もそう。
旦那さまを求めてこの地にやって来た。
こちらの世界で、まず、強力な占い師の方と知り合おうと思った。
それが出来ないまま、こんなことが起こるなんて……。
あちらの世界では未然に防げたことでしょう。
未逆さまのネックレスでダウジングをすれば、カバンのところへ導いてくれるかしら。そんな考えが過ぎりましたが、しかし、そんな気には到底なれません。何かを考える余裕がない。考えたくないのです。
「飴をカバンに入れていたことが悔やまれます。肌身離さず持っていれた良かった」
彼女の目的は、飴では無かったはず。
だったら、飴の袋だけを持ち去れば良かったのだから。
「お嬢さま、どこか休める場所をお探し下さいませ。ワタクシはどこでも眠れますが、お嬢さまはこのままですと、風邪を引いてしまわれますぞ」
「そうね……」
私は手を休めて、空を見上げました。
すっかり黒くなった雲が敷き詰められ、息苦しさまで感じられます。
そのとき突然、カンカンが顔を上げました。
鳥特有の首の動きをして、どうやら辺りを伺っている様子。
「どうしたのですか?」
「魔力の気配があります」
「え?」
「未逆さまのものとは違います」
「まあ……」
「ちょっと、様子を見て参ります。お嬢さまは、早く雨宿りの場所を探すのですぞ!」
カンカンは一息にそう言うと、私のひざから駆け足で地面に降り、真っ黒な翼を広げ、飛び立ちました。
占い師の方でしょうか?
カンカンがあれだけ急ぐと言うのだから、それなりの方なのでしょう。――いえ、この事態のせいかもしれませんけど。
もしかして、こちらの世界では、魔力を持っていることを周囲に明かさないのがポピュラーなのでしょうか? 未逆さまという知り合いがいながら、いっくんは占いを信じないと言っていました。あれだけ強大な力の持ち主が傍にいたら、私なら毎日のように占ってもらいますけれど……。
手を額に当ててカンカンの姿を見送って、その影も見えなくなってしまいました。
仕方なく腕を下ろします。
これから、どうしましょうか……。
立ち上がる元気なんて、どこにもありません。
何をする元気もないのです。
飴がないのですから、しばらくすると、こちらの世界の言葉が分からなくなるでしょう。
あちらの世界に帰るのが、良い対処法かもしれません。鏡が必要ですけれど、この世界の公衆おトイレには、とても映りの良い鏡が必ず設置されています。
まだ一週間も経ってないのに。
「何してんの、オネエチャン」
突然耳元で囁くような声がして、私は驚いて顔を上げました。
隣に見知らぬ殿方が、こちらを向いて座っています。私の顔を覗き込むようにして。
「雨に濡れちゃってんじゃん。いいとこ知ってるよ、行こうよ。寒いでしょ?」
柄の付いたドーム型のものを差し出して来ました。
その中に入ると雨の被害から免れます。そういえば、あちらの世界でこちらを覗いていたときに、見たことがありました。傘、と呼ばれるものですわ。
「あれ、もしかしてニホンゴ分かんない? ゴートゥーホテル。って、これは直接過ぎか」
ははは、とその方は笑いました。
「言葉は分かります」
「あれ、なんだ。じゃ行こうよ。おれも寒いのよね、たまんなくさ」
「雨宿り出来ますか?」
「出来る、出来る。もっといいことしたげる」
「もっといいこと?」
「上手いねニホンゴ。ハーフ?」
立って、とその方が促すので、私は立ち上がろうとするのですが、上手く足に力が入りません。いつまでもここにいては、カンカンの心配通り病になってしまうでしょう。それは避けたい。そう思うのですけれど、足に、力が入らないのです。
「立てないの?」
「ええ。……お恥ずかしいですわ」
「可愛いね。おぶってあげる」
「え? でも、そこまでお世話になるわけには行きませんわ」
「すぐそこだよ。これ持って」
傘の柄を半ば強引に握らせると、彼は私の目の前に背中を見せました。
なんて親切な方なんでしょう。
こちらに来て、何か不便があると、こうして必ず助けがある。これも、未逆さまのネックレスが導いて下さっているのかしら。
そう思ってネックレスを握り締めると、言い知れぬ不安が襲いました。
――あなたが思っているほど、きれいな世界じゃありません。
「どしたの?」
殿方が、振り返りました。
立ち上がると、とても背の高い方だと分かります。
そうですね、エー介殿ほどはないと思うのですけれど、体格がもっとしっかりとしていて、身体を大きく見せているのです。
「ここがいいって?」
覆い被さるようにして、私の視野を埋めました。
真っ黒な目。
同じ黒なのに、未逆さまのものよりもずっと恐ろしく、ずっと、底が知れない目を前に、私は動くことが出来ません。
作品名:こんにちは、エミィです 作家名:damo