PLASTIC FISH
B-side12.さよならとうたって(2/3)
夢は続く。
だが、終わりが近い。
いつもの慣れた手つきでカードキーを認識に滑らせた京は、一人の人間を無意識に探していた。
「お、みやちゃん」
「蛍原先輩」
呼ばれ方は一緒だが、それは京が脳裏に描いていた人物ではなかった。そうだとしても、数年の間ずっと世話になった人だ。
自分なりの、決別としての挨拶をしておくべきだろう。京は会話を続けた。
「先輩、今日も眼鏡なんですね。似合ってますよ」
「え? 今ほめた? みやちゃんが俺のことほめた?」
「ええ」
「うわあ、どうしよう今日傘持ってきてないよ。ああ、どうしたらいいんだろ」
「降りませんよ、雨。では、失礼します」
口をかたく閉ざしたまま、歩く。
この道が、無限に続けばいいと願った。同時に、一秒でもはやく終われと祈った。
自らのデスクを、一応と思いあさったが持っていくようなものは見当たらなかった。必要になれば、現金さえ持っていれば新しく買うことができるだろう。
周囲の記憶を消し、高階京という人間をこの世からいないということにするのであれば、銀行等に預けてある金は全て現金として下ろすべきか。
だが、あまり多くの額をとなると面倒になる。
考えることが面倒になって、京は部屋を移動した。
「イヴ。……いえ、水城」
運がいいのか悪いのか、中枢エリアには誰の姿もなかった。自分という存在が消えると決まっても、アダムとイヴは変わらず眠り続ける。
樹の想いを考えると、イヴを目覚めさせることはあまり望ましくないように思えた。
イヴはわからないが、水城としてのイヴはまた蘇ることを、生きなければならないという現実を、きっと拒むことだろう。
「どうなの? 水城」
問いかけてみる。だが、眠り姫は応えない。その顔はやすらかに見えるが、実際はどうなのかどうか。
「どうだと思います?」
「え?」
人はいなかったはずなのに。そう思い、振り向いて京は動く自由をなくした。
いつもと変わらない、いや、少し他人行儀だろうか――周囲に壁を作っているようなそんな、冷たい口ぶりで樹は問いかけていた。
「イヴは、目覚めるべきなんでしょうかね」
こつり、こつりと一歩ずつ前進していく樹。
――やはり、覚えていないのか。それとも、彼女のことだ。冗談だと言って、京に抱きついてこない可能性はなきにしもあらず。
「さあ……」
「私はね、思うんですよ。こいつは、目覚めたくなくて、夢の終わりがくるのが嫌で、ずっと苦しんでるんじゃないかって」
「……何で、そう思うんですか? えっと……」
あまりにも気になるゆえに、少々の誘導を始めた京。樹は冗談ばかり言うので、これに乗ってきても記憶を確かめられるかどうか――。
「富岡。君は、えっと……ごめん。誰だっけ?」
「……」
向けられた瞳は、嘘など混じっていない。本当に、今まであった色んなことを忘れてしまったというのか。
真に万が一を考えて過干渉はするなと釘をさされていたが、ついついその富岡樹という人間の心に触れようとしてしまう。
思い出が、滝のように流れ川のように絶えることなく長くどこまでも続いてゆく。
「あー、ごめん。失礼だった、私人の顔覚えるの苦手でさ」
「……京、です」
「そっか、京さんか。変なこと聞いてすまなかったね、それじゃあ」
「あ……」
思わず、声が漏れた。
嘘だよ、なんて言って笑い出さないのだろうか。真を選び、この現実を望んだとはいえ――少しではすまされない未練が、ここにある。
自宅を出るまでも、そうだった。相手が自分のことを忘れてしまうのなら、自分が相手のことを少しでも鮮明に覚えていなければと思った。
「ん?」
「い、いえ……。さよなら」
「うん、さよなら。っつっても休憩室行くだけだからすぐそばにいるけどね」
――すぐ、そば。
それがどれだけ近くて遠いか、遠くて近いか、今の樹は知っているのだろうか。京は耐え切れず、建物を出るべく走り出した。
驚き呼び止める樹の声が背後から追ってきたが、振り払う。もう何も聞こえない、聞きたくない。
もう、なにも戻らない。
作品名:PLASTIC FISH 作家名:桜沢 小鈴