PLASTIC FISH
A-side15.あるべき場所へ(3/3)
鏡の前に立つと、おぼろげに思い出す。
まだ若かった頃、自分の顔をした別の誰かが映ったあの白昼夢のことを。
あの人は泣いていた。
今も泣いているのだろうか、この醜くも美しい世界で。
「私はここにいる」
鏡に両手を当て、鏡の中の自分に触れる。指紋がつこうが、今は関係ない。そんなことはかまわない。
あの時の誰かへ、再び問いかける。
「生きている。だから、泣かなくていい。ほら、こんなにも幸せそうな顔してるじゃない」
微笑んだ。
鏡の向こうも、微笑んでいる。それでいい、孤独をうずめて、暗闇の中で一人泣かなくたって、いつだって会える。
「よし」
おそらく、鏡を見るのは今年最後になるだろう。
くるりと向き直り、京は洗面所を後にした。さよなら、かつての面影よ。
「樹」
部屋に戻るなり、見渡し樹の姿を探す。気のない返事があり、見た先で樹は座り込んでいた。
「京、いつ戻る?」
「遅くても深夜には。私の鞄どこにやった?」
「そこ」
「ああ、違うの。それじゃなくて、昔使ってたやつ」
鞄もそう長くはもたない。数年前に新しいものを買いそれをずっと使っていた京だが、壊れているわけでもなし、今日は古い方を持っていくそんな気分だった。
「ほい」
物陰から、すっと取り出されたそれは遠目でもかなり使い込まれていることがわかる。
「ありがとう」
手に取り、感触を確かめる。なつかしい、と京は少し切なくなった。この鞄を使っていたのは、まだ実家に暮らしていた頃だ。
樹と出会った頃も、この鞄だった。そう高くもなかったのに、長い間頑張ってくれる。きっと、壊れたとしても捨てる気にはなれないだろう。
荷物を移すべく、今使用している鞄の方へと古い鞄を持って歩き出す。
――しゃん。
鈴の音。
少しこもったそれは、鞄の内部から響いていた。ストラップなんて当時自分はつけていただろうか、と京は疑問に思いながらも足を止めない。
――しゃん。
また、鈴の音。
なんだろう。
京の心の中で、何かがひっかかる。何かが残留しているのがわかる。十年も前の、ほこりかぶった記憶が深い場所にある。
――しゃん。
「……これ」
気になった京は、鞄を開け手でそれを探りあてた。鈴飾りだ。輪の大きさからして腕を装飾するものだろうが、これをはめた記憶はない。
自分で買うだろうか。
貰い物にしては、いや、両親も樹もこういった類のものには縁がないはず。覚えていない。
「樹、これ……」
もしかすると自分のものではないのかもしれない、そう思った京は座り込んだままの樹へ向かって鈴飾りを示そうとした。
頬を、温かいものが伝う。
「京?」
樹の声が、ずっと遠く聞こえる。
声だけではない。
この世にあるもの、全て。見えるもの、聞こえるもの、感じるもの。世界が遠くなっていく。
「京! おい、京ってば!」
異変にいち早く気付いた樹が、駆け寄り京の肩を掴み揺らす。だが、ゼンマイの途切れた人形のように動かない。
「……る」
「え?」
ぼそりと言った京の声は、本当に小さい。他人に、いや、自分にすら聞かせる気のない声。
「……私、これを……覚えてる」
「京……?」
――しゃん。
揺れている。
鈴が、揺れている。
「あの人を、誰か思い出せないけれど、あの人が、寂しい顔をして――ずっと探してくれてた、あの人が――」
京の涙は、どんどん勢いを増していく。ぽたぽたとささやかに落ちていた粒は、雨が激しくなるように、溢れては京自身を濡らしていく。
――しゃん。
黒い髪。
黒い衣服。
紅い目をして、月を背に立つ永遠の旅人。孤独に一人泣いていた、いや、その涙すらも枯れてしまっていた――それは、誰だった?
「誰……誰なの……?」
「どうしたの、おいってば」
「わからない。誰なのか、わからないのに悲しいの。その人の寂しさが、悲しさが、私に言うの。代わりに泣けと」
「……?」
「でも違う。同時に、私が泣きたがってる。すごく、寂しくて、すごく切なくて、すごく悲しいのに……それがわかるのに、何がって言われると、答えられない」
「いい。いいから、京」
事態は読めない。
だが、樹は黙って京の体を抱きしめた。涙とともに、漏れる嗚咽。
抱きしめられて、糸が切れたのだろう。堰(せき)を切って、京は赤子のように泣き始めた。激しい悲しみ、そして苦しみを胸に抱いて。
鈴の音が、不規則に鳴り響く。京の涙に感謝するように、申し訳なさそうに、そしてなによりも寂しく。
「もう、帰らない……全部、なにもかも」
「そうだよ。お互い、そんな荷物を抱えてやってきたじゃないか。泣かないで、ほら」
「聞こえるのに……あの人の声が聞こえるのに。この鈴の音を今もずっと覚えてる。なのに、なのに……!」
「やめな、京。もういいんだ。もういい、考えなくていい……思い出さなくていいことなんだ、それはきっと。今、ここで生きている自分達には」
鈴の音が響く。
いやになるほどに重ねてきた、思いを一人奏でるべく寂しく、悲しく、静かにそれは鳴る。
記憶が消えるわけじゃない、思い出せなくするだけ。だから強い思いやきっかけがあれば、ふとしたことで再び思い出せる。
――誰かがいつか言った言葉が、京の心にいつまでも反響していた。
作品名:PLASTIC FISH 作家名:桜沢 小鈴