PLASTIC FISH
A-side14.月のない夜に雨は降る(4/4)
「うし、片付いた」
樹が顔にかかる前髪をのけるついでに、汗をぬぐう。
ダンボールは最終的に、二つ残った。バンド関係の写真や手紙、衣装などを「捨てる必要ないでしょう」と京が半ば無理矢理捨てることを拒んだのだ。
完全に面白がっているのがわかり樹はネタになってよかった反面複雑に思う。だが、部屋のすみにでも押しやっておけばいいだろう。
「……」
こうして見渡すと、部屋は意外に広かったのだな、と実感する。
まるで新しい部屋に引っ越してきたような気分だ――いや、実際それに限りなく近いのかもしれない。
これから、ここで、樹は京とともに再出発するのだ。
「よし、京くん」
「はい?」
声のもとを辿ると、京はカーテンの近くでペットボトルのお茶を飲んでいた。さんざん言われたが、こうして見ると京も外見は自分と同じタイプだ。
背は一般的な男性と比べるとそう高くないが、すらりとしているので数字より高く見える。底のある靴をはけば見た目は十分決まるだろう。
昔の経験を引っ張り出して、京にそういった化粧をほどこしてやりたくなる。素材がいい、歌唱力次第ではボーカルをつとめてもいいくらいだ。
だが、乗ってくるとは思えないのでそれは妄想にとどめることにする。
「この部屋で二人再出発といこう。まず何が必要だと思う?」
「何も」
「……」
あっさり返ってきた言葉に、夢がなかった。
「京くん。こう、もっとだね。夢とか希望とか、そういう膨らみだすと止まらないようなものはないのかね。子どもは三人欲しいとか」
「生活できればそれでいいと思いますけれど」
「掃除した意味がないぞ、意味が……」
「いいじゃないですか」
「なにがー」
機嫌をそこねた子どものようにふてくされる樹を見て、お茶を置いた京はふっと笑う。
まったく、深夜に音を殺してまで何を二人部屋の掃除にいそんでいるんだか。苦情こそこなかったからいいが、昼間に数日かけてやればいいものを。
「あせらなくて、いいんですよ」
終わってしまったものは戻らない。
だが、新たにはじめることは、いつどんな時だってできる。選べるのだ。そう急くこともない。
一瞬であれど長い旅になる。
笑うことも、怒ることも、泣くことも、きっとある。繰り返して、繰り返して、それでも枯れなくて、いやになるくらいに。
京は、言葉を続けた。
「普通に暮らすうちに、必要なものは必要だと気付きます。気付かないのなら、それはその時点では必要のないものです」
「夢がないなあ」
「その夢を作るために、これから生活していくんでしょう?」
「うー」
不満そうだ。本当に子どもとなんら変わらないのだな、そう思うと京は笑む顔が元に戻らない。
「朝日でも見ますか? よく晴れてますよ、ほら」
――雲が空にある方が、夕焼けも朝焼けも綺麗だ、それは二人共通しての感覚だった。
冬の風が絶えず吹くが、痛いほどではない。汗をかいたあとには、風邪をひきそうだという危険性は置いておいて、気持ちのいいものだ。
バルコニーに二人並び、言葉もなくただ空を見る。
時間の感覚が薄れてゆく。
人の気配も、まだ喧騒というには遠い。
「ずっとこのままだといいのに。世界に二人っきりだ」
「それはそれは。現実に戻ったら、また人ごみに埋もれる毎日ですよ」
「じゃあ、逃げようか。遠くまで――誰の手も届かない場所まで逃げて、そこで一生暮らそうか」
「不可能では、ないけれどね。でもやっぱり、人は日常の中で生きていくものだから」
――そして、辛いことも時間が薄れさせてくれる。
犯した罪も、やぶった約束も、別れの痛みも、時だけが癒してくれる。忘却という救いを与えてくれる。
楽しいことも、同時に薄れていってしまうが――薄れていかないとすれば、すぐに飽きてしまうだろう。それが当たり前になってしまうだろう。
それでは楽しくない。
忘れるから、また楽しめる。また鮮やかな感覚のまま笑うことができる。何度でも経験すればいいのだ、人間が生きる短い時間の中で。
春の訪れを感謝すること、夏の足音に心躍らせること、秋の気配に寂しさを覚えること、冬の寒さに春をただ待ちわびること。
そんな感覚に飽きる間もなく、人は死にゆく。
「長生き、したいなあ」
「どれくらい?」
「吸血鬼くらい。一生若いままで、映画みたいにかっこよく生きたい」
「……」
京の返事が、途切れる。
「ん?」
「……樹は、人間のほうがいい。私もそう。吸血鬼になって長生きしたら、きっと考えるわ。人間になって、短いけど鮮やかな人生をおくりたいなって」
「お、なんか説得力ある。みやちゃん前世が吸血鬼だったりしたの? それとも、その手の知り合いがいるとか?」
「どちら、かしらね……」
広がる空から、夜が消えていく。
吸血鬼が音も気配もなく跋扈する夜が、またひとつ終わっていく。
交代とばかりに現れた、燃えるような朝焼けを見ながら京は呟いた。
「両方、かな」
作品名:PLASTIC FISH 作家名:桜沢 小鈴