PLASTIC FISH
A-side12.東の海はエデンに近く(1/3)
「……真」
無限のように長く思えた沈黙の終わり、京は主である吸血鬼の名を呼んだ。
伏せていた顔を上げた真の瞳に、複雑な色が宿る。
同時に樹にも、動揺にも似た何かが走っていくのが空気を通じて京に感じられた。
「命を何度も救ってくれたことを、まずは感謝するわ。貴方がいなければ私はとっくに死んでいた」
「……巻き込んでしまったから、気まぐれで助けただけよ」
「それでも、よ。けれど、誓いが解けたら私はあの傷だらけの状態に戻ってしまうのではなかったの?」
京の指摘は正しかった。
『かりぬい』と称して、真は一度京を試した過去がある。それは置いておくにしても、今あの夜の傷一つなく京が立っていられるのは、誓いのおかげといっても過言ではない。
その想いを通し真の人でない力が流れ込んでいるからこそ、今も死んでいない。
だが、本当の事情は吸血鬼である真にしかわからないことだった。話したくないのか、離したくないのか、返ってくる言葉は濁っている。
「あれから……時間が経った。あなたの体を侵食しない程度に、傷の治癒を早めていた」
「そう、ならばそれにも感謝するわ」
「だから、あなたはもう私なしでも生きていける。今立っているのが、その証拠」
裏づけが取れた。
真にはもう、わかっているのだろう。京の答えが、今から襲いくるであろう現実が。目を開けて見ていた夢が、終わらんとしていることを。
「樹さん」
「ん」
「……何で、来てくれたの」
「そういうのを、よりにもよってこの場この顔ぶれで言わすか。みやちゃんらしいといえばらしいけど、そこは黙秘としておく」
「わかった」
あっさりと、京は引いた。元よりその答えが聞きたかったわけではない。ただ、確認しておきたかった。それだけだ。
「決まったようね」
「ええ。私は……ここに残る。貴方とは一緒にいけない」
告げられた真は、どこか寂しげで、同時に安らかでもあった。重荷が降りた、そんな顔をして。だがそれが命より惜しい、そんな目で。
「そう、それがあなたの選択なのね。では、ここでお別れ。……ヒトの世界へ、お帰り。あなたがずっと見ていた私は夢なの。大丈夫、次に目が覚める時にはあなたは――あなたは、日常に」
『戻っているから。私のことを、忘れているから』
最後の言葉は、きっと樹には聞こえないものだった。誓いにより一時的に通った心、その残滓が、残照が見せた声という幻。
強気な真はどこにもいなかった。
京の胸が、強く痛む。
「真……」
「そんな顔しないで。別れに慣れている私でも、つらくなってしまうわ。いいのよ、あなたは人間なのだから何も問題ない……」
――しゃん。
この音を聞くのも最後なのだろうか、と京は思う。
寂しい音だった。
いつの日も、それは切ない音しか発さなかった。真という吸血鬼もまた、同じだったのかもしれない。
心を映して、泣けない真のかわりに泣いていたのかもしれない。そんな鈴が普段慣らさないリズムで響いたため、京は気になって視線をやった。
真の腕から外された飾り。手の内にあるそれを、惜しそうに見つめる吸血鬼の姿。
「あげるわ」
「え?」
そっと差し出された手。その内に、鈴飾りはある。
「もう、いらないの。私にはいらないものだから、あげる。いらないなら捨ててかまわない」
「……ありがとう、と言うべきなのかしら」
断りきれず、流されるままに手を差し出す京。しゃらん、と音を立てて自らの手に鈴飾りは移った。真が肌身離さずつけていたものだ、よほど大事なものだろうに、いらないなんて。
だが、嘘を言っているようにも見えない。真意をはかりかねるが、それ以上の干渉は許されなかった。
「樹」
呼び慣れない名を呼ぶ真。対する樹も、急に話をふられて少々の動揺を見せた。
「な、なに?」
「京のこと、お願いするわ。あなたにも京にも、会うのがこの夜が最後になるだろうから」
「……わかった」
「では、二人ともおやすみなさい。朝までこの公園には結界を張っておくから心配いらないわ。戻らない時を、大切にね」
その言葉が終わらないうちに、二人の視界がぐにゃりと歪んだ。体から力が抜けはて、だが受け身をとる余裕はある。
体はひとりでにしゃがみこみ、眠りに落ちても問題のない体勢になる。落ちたフェンスから遠く離れた場所に二人が立っていたのもまた、真の狙いだったのかもしれない。
薄めた墨が広がるように、濃い霧が辺りを覆うように視覚が使い物にならなくなっていく。
意識が落ちるその一瞬、京は寂しげに笑む真の瞳をとらえた。
作品名:PLASTIC FISH 作家名:桜沢 小鈴