PLASTIC FISH
A-side11.その瞳が焼き付いても(1/5)
「い……」
自分は、呼んではいけない者の声を呼ぼうとしている。さきほどこの人だけは見逃してくれ、助けてくれと乞うたばかりだというのに、愚かなものだ。
だが、届きそうで届かないその想いは、想いという名の手は、あの人の輪郭をとらえ、痛いほどに腕を伸ばしつかもうとしていた。
「?」
怪訝に思ったのか、クロエが倒れたままで言葉を捜している京を見た。
吸血鬼ならば、気付けない気配ではなかった。聞こえない足音ではなかった。見えない姿ではなかった。
だが、少女は勝利を確信しそれに溺れていた。
「いつきさ――――」
「みやちゃんッ!!」
ああ、来てくれた。そうだと思った、樹という人間は超がつくほどお人好しで、同時に愛想の一つもなくて、まっすぐな人だったから。
坂道を一気に走り下ってきていたらしい。息を切らせながらも、樹は止まらずクロエの方へと一直線に駆ける。
インドアな人間かと思えば、なかなかに身体能力は高い。
「え……」
クロエが視線を戻すが、遅い。『危険な時は主を守れ』としもべに命令していたのなら彼女は直撃をまぬがれただろうが、判断が甘すぎた。
次の瞬間には蹴られ、地に転がる。手をついて、忌々しいとばかりにクロエは怒りをあらわにした。
樹はもちろん、知らない少女をいきなり力の限りに蹴るような人間ではない。だが、その勘の良さと倒れている京を見てぴたりと状況を当ててみせたのだろう。
人間とは思えない芸当である。いや、
「……人間にしておくのが、もったいない」
クロエが低く言った。
「樹さん……樹……」
「ふーん、さっき言ってた見逃してくれっていう人間はこいつか……借りを返すよ。風穴でも開けようか」
「みやちゃん、これは……」
立ち上がり、舌なめずりをするクロエはもはや少女の皮をかぶった肉食獣でしかない。立ち上がった京をかばうように、前に立ちクロエと対峙する形になった樹は――現実外れの状況と雰囲気の説明を求めた。
「この子は、あそこに立っている人は」
「もういい! 大体はわかる、ここから逃げよう! ……さあ、京!」
手が伸ばされ、二人の手が重なる。強く握ってくれているその力強さが、無謀ながらも京の心の内をわずかながらに穏やかにした。
間髪置かずに走り出そうと退路を探すが、相手はたった二人しかいないというのに、見つからない。
しもべの男には新たな指示が出されているらしく、先ほどと違いじりじりと二人を追い詰めるように移動している。
蜘蛛の巣にとらわれたかのような錯覚。
人外であればどうということはないのだが、樹も京も人間だ。クロエだけではなく、男の銃をも警戒せねばならない。
それ以前に男女の絶対的な力差というのも把握しておくべきだろう。樹の運動神経はかなりのものに見えるが、火事場の馬鹿力という可能性もある。
「京」
短く、名を呼ぶ。一秒一秒が、この後の展開を決める決め手となるこの状況で『みやちゃん』などとのん気に呼んでいる暇はないらしい。
言葉はすぐに繋げられた。
「来た道を戻って上へ行きな。そして、そこにいる人に助けを――」
時間が、切れた。
言葉とともに、分断された。目の前に立っていた樹の姿が一瞬にして消える。風の向きを察し見た先では、苦しみにうめき倒れたまま動かない樹の姿があった。
「真だけを追ってきたのに、手間をとらせる」
離れていたクロエが、いつのまにか京の目の前にあった。彼女の一撃が樹を吹き飛ばしたのは明らかであったが、速すぎるあまりにとらえきれない。
速度に対して威力はそうないようで、樹の意識はまだはっきりとそこにあった。だが、立ち上がれない。
「……っ」
一歩クロエが近づけば、一歩京が下がる。
じりじりと近づくようで近づかない距離は、いつ吸血鬼である少女に焦れと限界を伝えてもおかしくなかった。
作品名:PLASTIC FISH 作家名:桜沢 小鈴